2016年7月2日


56.受け入れる努力

(日めくりブログではないので、途中から読むと繋がらないと思います。21稿までが前置きになります。)


究極の「受け入れる」は、全てと一つになることと捉えてよいと考えますが、そこにたどりつくにはたくさんの段階があり、私がそこへ到達するのは容易ではないことを悟りました。

この歳になっても精神のあり方は十代の頃とほとんど変わっておらず、自分を大人と言えるまでに千年はかかりそうです。(*´∀`*)

ただそういう自分を認識できたことで、ゆっくりでも確実に前に進める「希望」のようなものが湧いてきました。

まだまだ好ましくない習慣や思考癖が残る私は自分を俯瞰することで、リバウンドを抑えることが必要です。

それにしても私の場合、一進一退が続きます。

それはたえず意識しておかなければならない要素が多すぎて、スムースな論理の展開ができにくいことも原因の一つになっています。

本当は、Don't think. Just feelのはずなのですが。(^。^)

考えるうえで欠いてはならない項目が多い場合、普通は順序として浅い部分から深い方へと段階的に反復しながら判断していますが、反復する努力がないと、いつのまにか忘れてしまい、そのままだと根拠のないまま論理を展開することになりますから、いつまでたっても確信に近付けないことになります。

そのことで、裏づけのない信念や概念を構築してしまいますから、その状態では「信じている」「分かっている」という判断にはならないということです。

私はようやくこの段階を抜けようとしていますがまだリバウンドはあります。

ここに蓋をしてしまうと「期待」と「依存」の世界、つまり自分の現実の多くは他人が創造することになりネガティブなままですから、「受け入れる」ではなく「あきらめる」になってしまいます。

これも判断基準の大きな要素です。

そこで自分のために、この判断基準のようなものを箇条書きにしてみました。


1.ここまでの問答で、他人を「受け入れる」「赦す」の意味は、相手に対して良否や善悪の判断をしないいことではあるが、それを良いと認めたり放置することではないと定義しました。

2.その前に、自分を受け入れ赦す必要があること。

3.それにはまず真の自分を知ることでしか始まらないこと。

4.その前に「左脳」を自分と思い込んでいる自分を常に「俯瞰/客観視」出来るようでなければ、その先へは進めないこと。

5.またその前にヨガや瞑想、呼吸法、妄想法、などを使ってもうひとりの静寂の自分を見つけておく必要があること。

6.またまた、その前に自分の信念や概念を、いったん白紙に戻す必要があること。

7.それには嘘を見ぬく知恵を養わないと信念概念が変わらないということ。

8.その前に刷り込んでしまった「既存の概念」や「信念」での思考の限界を知ること。

9.そのためにはその探求をポジティブに楽しむのだという強い意図/意思がいること。

10.その前に人の質としての「二元性」や「分離」の構造をよく理解すること。

11.そして不思議な世界を「量子の世界」に置きかえてみること。

12.常に身近なシンクロニシティーを観察していること。

13.たえず自分の感情に気付いていること。

14.疲れすぎていないこと。


こうして書き上げてみると、どれ一つを取っても欠かせない要素を含むものばかりで、受け入れることと同時に思いの具現化にも共通していることが分かります。

前後している部分もありますが、この段階を大きく飛ばして前進すると、途中で根拠を失ってしまいます。

ちなみに、何もしないでも「今この瞬間」に在り続けることができている人は、私のように努力することはいらないし、そういう方はたくさんおられます。

内側の探求は通常外側からの情報で始まると思いますが、何度も書いていますように根拠のない思い込みは「そうならないと困る」という「期待」と「執着」を引き起こしますから、ネガティブな世界を具現化してしまいます。

自分の「内側」を探求するには、「外側」の探求や情報の吟味も必要だということがよく分かります。

余談ですが、偏りすぎた「内側派」と「外側派」の批判対決を時々見かけます。

目指す方向は同じなのに、互いを「受け入れる」心を強く持っていれば、世界はもっと早くに変わっていたのかもしれません。

そのタイムラインの波動に合っていないからこそ、私はここにいるのでしょうね。(´∀`*)

私の場合は時間をかけて「左脳」に刷り込まれてきたネガティブを解き放しながら「内」「外」の探求を深めるしかないと思っています。

そうして分離と選民思想が生んだ世界支配という負のスパイラルにみんなが気付き、これを取り除くことができれば、時間やお金の束縛からも開放されるはずです。

物質的な余裕ができれば人類の多くが「内側」の探求を始めることができます。

みんなの「受入れる」心が大きくなれば、どんなに素晴らしい世界が現れることでしょうか。

イメージするだけで目頭が熱くなります。

ただ、最近の私は人類全体や、地球まるごとにまではフォーカスしなくなっています。

それは受け入れられない現実を際限なく思考し、具現化してしまう人達がいるからです。

テレビを捨てたのはそれが原因です。

そこに引き寄せられると、きりがありません。

過去も未来も、今という瞬間に創造している可能性があるからです。

私は広範囲な出来事、歴史、スピリチュアルな情報など、かなりの量にアクセスしていますが、かもしれないという程度でクールに受け止めるようにしています。

ただし、情報に対してはクールですが、発信してくださる方たちには日々心から厚く感謝しています。

それぞれには、分担としての役目があると思うので、めげることなく徹していただきたいと思っています。

わたしはその分担として身近なところにフォーカスし、今では自分が生活するこの地域をわたしの世界すべてであると捉えるようになってきました。

世界へ発信する人、地域に発信する人、家族と身の回りに伝える人それぞれが「受け入れる」心においては皆同じです。

そして、私は思考の波動よりも、こころの波動と、無理のない行動で世界を変えることにしました。

あなたの世界ではなくて私の世界のことです。

で、わたしは百匹目の猿でいいと思っています。

世界が大揺れのこの時期、私のような脳天気ばかりだと、支配組からは好き放題にやられてしまいそうですね。

でも、果たしてそうでしょうか。

脳天気でいると万が一のときには対処もできず、こっぱ微塵にされてしまうのでしょうか。

全ては波動。

ここは波動でできたホログラム。

思考や感情は波動というエネルギー。

その万が一の事態を創っているのは誰なのでしょうか?

三次元的には、ひと握りの支配者達であるということは重々に分かっていますが、その者達の尊厳を受け入れる方向ではなく、逆に彼らが引き起こす罪の方を受け入れてしまっている私達なのではないでしょうか。

「受け入れる」という意味を理解し、その為の努力がなければ、いとも簡単に方向を見失います。

人のせいにして、現状を放置することが、どれほどネガティブな世界を大きくしてしまっているかを肝に銘じる必要があるのではないでしょうか。

自分の現実は自分で創る、多次元自己として生きるか、今まで通り「左脳」を信じて三次元の自分を生きるか2016年は決断の時期のようです。

たった一人のポジティブなエネルギーが全てを変えてしまえると考えるのはバカげた幻想でしょうか。

この世界すべてが自分。

そして、大いなるいちなる存在が「今この瞬間」の自分であること。

それを思い出すことがアセンションであるとすれば、私の考えにも一理はあると思うのですが。

それでもまだ「左脳」に翻弄され続けますかと、自分に言っています。(*´∀`*)

心から人を「受け入れる」ということ、果たして「左脳」にできるのでしょうか。