2016年6月26日


54.勇気に根性はいらないⅡ

(日めくりブログではないので、途中から読むと繋がらないと思います。21稿までが前置きになります。)


あることがあって 「37.勇気に根性はいらない」 を自分に分かりやすいように書き直してみました。

自分の「内側」を見つめる中で、常に 「ポジティブ・愛・いい気分」 でいるためには、深層部にネガティブな「感覚」を貯めていては、どうあがいてもそうはならないことが少しずつ分かってきます。

そうなると、根っこから浄化し直す必要性に気付きます。

そのためには、自分の中の小さな「恐れ」を解析し切り離すではなく、受いれてゆく必要があることも分かってきました。

以前の私は、「いい気分」でいるために「人から良く見られるように」とか念の為に「余分にお金を手に入れておく」とりあえずここは「勝っておきたい」など、分離的思考からくる「ネガティブ」な思いがぬぐい去れないでいました。

そうしないと、私が丸裸になってしまうという「恐れ」があったからです。

まさにこのブログで取り上げてきた、誰かより〇〇の「基準/条件付きの欲求」そのものです。

私の場合、このネガティブによってシンクロのリバウンドを起こしていました。

根っこからというのが分かってはいても、このネガティブを手放すとなると、これまでネガティブで創り上げた土台を壊すことになりますから、逆に「不安な気持ち」になってしまいます。

「基準付き欲求」は、自分と他人を切り離した「分離的思考」からくるものであることも、理屈では分かるようになりました。

自分の中にはある種の中毒、「依存」や「執着」があることも認識できています。

そして、そのことが真に自分を愛しているとは言えないことも分かります。

なのに「恐れ」である「基準付き欲求」を手放せないのは、なぜなんでしょうか。



私は「恐れ」を手放すことにも「恐れ」ていたんです。



どちらに転んでも「恐れ」?

このままではポジティブなシンクロは起こせません。

そしてジレンマが続きます。

と、言葉にしてみると大げさになりますね。(´∀`*)

普段の私はこういう時、淡々と考えているだけですが、思考が行き詰った時には性格上、笑うしかありませんでした。

だって自分を責めたくはないですから。

でも、これを乗り切るためには何が必要なのでしょうか。

ほんとうは、初めから分かっていました。

「勇気」がいることを、、、、、

そして、「勇気」のない私はどうしたらいいのでしょうか、、、、、



勇気のない私に「勇気」を持てと言われても、何らかの「恐れ」と「矛盾」が付きまといます。

そして、自分に対して「勇気」がないという「ダメハンコ」を無意識に押してしまいます。

この時、当然のようにネガティブな感情を伴っています。

勇気がない者に勇気を出しなさいと言うほど、酷なことはないんです。

恐いものを前にして立ちすくんでいるのと同じように、益々「恐れ」が増幅します。

私は知らず知らずのうちに、自分にそれを強要しようとしていました。

この行為こそが「恐れ」を基盤とした「ネガティブ」そのものなのですが、止まらない「思考」がそうさせているという事に気付くまでは、この無意識のネガティブが薄れることはありませんでした。

普段、二元性に於ける「恐れ」のほとんどは、内面外面ともに周りからどう見られるか、また、取り巻く環境や自分の様子がどう変わるかを「思考」した時に、「感情」が反応して恐れが発生しているのが分かると思います。

でもこれは、全て自分の「外側」を対象にして恐れを示しています。

自分と他人を「分離」した上での「思考」から来る恐れの「感情」です。

ここでフォーカスする「勇気」は、外へ向けてのそれではなく、自分の深層部にある「信念・概念」などのことで、それを素直に手放せるかどうかということにあります。

端的には「違う自分になる」ことが課題になっています。(その必要性の是否について、この稿では問いません)

そして、思ってはいても、変えることが出来ないという部分です。

自分の中で好ましくないと感じられる「思考癖」や「習慣」などもその一つです。

これは実際には前稿までで「分離」と「恐れ」が原因という結論が出ていますので、今この段階では他人が現実を作る「左脳」だけの自分を取るか、自分の現実を自分が創る「本当の自分」を取るかに全ては集約されます。

シンクロの構造を知れば知るほど「思考」がポジティブに傾いてきますが、「深層部」にある「依存」や「執着」による「習慣」や「思考癖」が最後まで立ちふさがることが自覚できると思います。

私の経験から、このどちらの自分を取るかは必ず精神的に 「らく」 なほうを選んでいます。

この「らく」はリスクの少ない方向を「思考」しているともいえます。

「しんどい」より「らく」な方がいいに決まっていると、「左脳」は言います。

だったら、この世界には来ていないはずなんです!(50~53稿で問答した部分です)

これを選ぶのは明らかに「左脳」なのですが、シンクロの面白さに気付けばそれが徐々に反転します。

「恐れ」を手放せばポジティブなシンクロが連続し出します。

それが分かれば、「思考」する「左脳」はどちらを選ぶでしょうか。

「らく」なだけよりも、「楽しい」や「有意義」を選ぶはずです。

その為に「今」の瞬間を感じながらシンクロを観察し、少しずつ気付きを即して行きます。

自分の中の小さな「恐れ」を一つ見つけ、手放して行く度に「愛」の方に傾く自分が見えてきます。

「恐れ」が消えたことが認識できれば、立ち向かう「勇気」など必要ではありません。

自分を知るということの大切さが分かる瞬間です。

リアルなこの現実が時として幻想とも受けとれてしまう、それは「今」を感じ、シンクロの構造を知ることで、自分という一人の人間が限りなく自由を持たされていることに気付いた時の感覚です。

その感覚は「感謝」ともいえるような、胸につかえるものなどなにもない素晴らしい感覚です。

それが分かれば、あとはただ「意図」するだけ。

「らく」を選んで結果的に堂々巡りを続けるか、「楽しい」を選んでその連続の中で生きるか、ただ選ぶだけです。

二元性をほんとうに受け入れることができれば「楽しい」を選ぶはずです。

そのうえで、「真の勇気」がポジティブな情態「愛」からしか生まれないことを知っていれば、ネガティブな勇気を自分に強いることは誰もしなくなるはずです。

暴力的な勇気を強いることが、自分や他人をネガティブな土俵に乗せてしまうことの意味を知りました。

これは、怒りや恐れを煽るような情報が危険であることの証明でもあります。

そこにフォーカスしすぎると引き寄せられてしまい、好ましくない真実を創る可能性があります。

しっかりとグラウンディングをし、パラレルの中の一つ、自分が選んだ今いるタイムラインの真実を知る。

そうして私は「愛」と「楽しい」を選ぶことにしました。

それには、思うだけではなく、偏らない知識を吸収し、知識を叡智に変え、自分という「いちなるもの」の真実を知るという「意図」が必要だと感じます。

「恐れ」の真実を知れば、「恐れ」は薄れ、私はほんとに少しずつですが受け入れることができるようになってきました。

この場合の「受け入れる」や「許す」は、よいとして認めたり、放置することではありませんよ。(念の為に)


  立ち向かう「勇気」は受入れる「勇気」があってこそ、真の「勇気」といえることを知りました。(*´∀`*)