2015年7月25日

46.「信じる」とは「分かっている」 のこと

(日めくりブログではないので、途中から読むと繋がらないと思います。21稿までが前置きになります。)


「私はいつも、何を信じて生きているのだろうか。」

なんて、漠然と自分に問いかけてみました。

経験や知識?科学や常識?あるいは直感?

ふだんは、そういうことを意識することなく、ほとんど反射的に思ったり行動したりしています。

ところが、大きなイベントの場合は,信念や概念・価値観に基づくようなものが思いの中に浮上してきます。

例えば、大きな買い物、出会いや別れ、仕事選びや生き方などなど。

この先楽しくなれるかどうかが、かかっています。

そして決断のまえに、自分の思いや行動に意味付けをする必要が生じます。

後悔しない為、もしくは自分の正当化の為に。(いい悪いに関係なく)

このとき、結果が見えにくい場合には迷いが生じます。

迷いが生じるときは「感情」も大きく揺れますから、シンクロによる現実も迷いと同じ方向にネガティブとポジティブを行ったり来たりします。

そして迷いの度合いに応じて考えます。

その時が来れば、何かを信じて決断を下します。

決断後も迷っている場合があります。

とにかく、迷う時は迷うんですからしかたがありません。

でも、この迷っている時におこるシンクロは、ほとんどが人任せの現実を展開しています。

小さなことでも大きなことでも、集合意識の中に巻き込まれているのが、観察から分かります。

では、迷いをなくすにはどうしたらいいのでしょう。

整理してみます。

先にあげた、経験や知識、科学や常識、あるいは直感などをベースに何らかの価値観が出来上がります。

私はこの価値観を人に照らし合わせることによって、自分を判定していました。

この現象自体を否定できる要素はほとんどないと思います。

次に、場面は様々ですが、それぞれの価値観を基準に好き嫌いや正否が決まっていると思います。

これを反射的に、日常の中で繰り返しています。

ここにも否定できる要素はありません。

この自然な流れに反して、自分の経験や知識、科学や常識、直感などに疑問や未知なる部分が生じた時に価値観・信念・概念が揺らぎはじめます。

疑いを持つことは自分を守るために必要な時がありますが、この疑いが迷いにつながります。

もう一歩進めてみます。

① 「常識」は、このブログで何度も取り上げているように、意図的に刷り込まれている部分があることに気が付けば、面白いほど逆さまなことがわかります。
大切な決断を下す場合、常識の中から「正解」や「真実」を見出すには、今の時代かなりの無理があり、ネガティブな土台を強固にしてしまう恐れを感じます。
また、常識によって作りあげた価値観が含まれる「いい感じ」「わるい感じ」という「感覚」を「直感」と勘違いしないことが最重要であると考えます。

② 「知識」「科学」「情報」の類は、裏の裏の裏が見えたとき、完全にそのデータは崩れ去ることを前提に考えなければ、私のように何回も崖から落ちることになります。知識や情報は叡智ではありませんし、「分かっている」ではなく「聞いたことがある」だけでしかありません。
「顕在意識」が要求するパーフェクトな整合性はないものとして扱わなければ、膨大な量を相手に真実を見出すにはいくらかの無理があり、ある部分は「常識」と完全に同類とみなす必要がありそうです。
「常識」に類した「価値観」のままで「いい感じ」で「腑に落ちた」ことになっていないかが、重要課題になってきます。

③ 「経験」「実体験」は騙されたままになっている場合もありますが、自分の中では信頼性の高い事実です。
実生活の中で直接的に観察した「五感」による感触や、「感情」が動いた感触、シンクロ二シティーの経験など、直接的に受けたものは「分かっている」という自分の真実の一部になるものです。
実体験を科学し、その法則性を見出すことが「叡智」につながり、そこで初めて科学は生きてきます。

④ 「直感」は私の場合、時々あてになりませんので、結果の正誤は別として、体験としての「感覚」「感触」だけは自分の中に「真実」として残ります。
体も含めて常時何かを感じている、この「感覚」「感触」は、誰のものでもなく自分のもの、自分そのものと言えます。

この中で「常識」と「知識」「科学」「情報」は時代によってどんどん変化して行きますし、偽りの情報もあります。

の多くは普遍的なものではなく、あやふやで安定していないのが分かります。

を重視する人は、知識や情報を積極的に更新し、顕在意識レベルで、価値観や概念を思考によって変化させようとします。

この変化が、自分の深層部に届いているかどうかは分かりません。

一方、「信念を曲げない」という形をとる人もいます。

の「常識」を基盤に、その人は迷いがなく、いつも凛としてかっこいいです。

但し、「常識」という「制限」をかけることで迷うことがなくなるので、らくではありますが、新体験や変化を恐れる傾向が結果的にはネガティブを呼びます。

ここから叡智は生まれそうにありません。

相対的にです。

自分がこの極端な両者の、どの辺の位置にあるかを、見極めておく必要が有ります。

それは、自分のネガティブな土台の種類や大きさを「知る」ことで意図的なシンクロが起こせるからです。

自分を知ることが大切です。



ある程度気付きが進むと、に対する価値観や概念を修正しようとします。

あるときは学びとして、外側からの情報であるをどんどん吸収しようとします。

私はこの状態が何年も続きました。

そして、分かっていてもネガティブが簡単には止まりません。

懸念、批判、嫌悪、悲しみ、怒りなどなど。

前稿や前々稿にも書いていますが、自分の外側にフォーカスし「思考」と「模索」を続けると、対象が大きいほど堂々巡りを繰り返しています。

それがダメだと言ってるのではないですよ。

内、外のバランスにおいてのことです。

内側も外側も知れば知るほどその先があって、キリがないほど膨大なものが見えてきます。

それゆえに好奇心が騒ぐのですが。

私には、無限に近い情報や様(さま)は、フーカスすればするほど拡大し続ける特性を持っているように見えます。

そして、自分の不完全を埋めるため情報だけに偏ると、堂々巡りのような「模索地獄」を自分で作ってしまいます。

この場合、よく観察すれば、好奇心からではなく、「恐れ」がベースになっています。

ネガティブの方向に土台を固めることになります。

いつ来るともしれない真実や、幸せを自分の外側に向かって求めます。

この時の私は、そのネガティブに全く気付いていません。

「希望」ではなく、全てが「期待」になっていることを。

自分を受け入れたつもりになっていても、模索という行為への「依存」が続く間は自己否定が止まっていなかったんです。

内側と外側のバランスが崩れた状態です。

自分の不完全性を無理に補おうとすると、観察から「自己否定」というネガティブな変化を起こしていることが分かります。

また、自分の不完全性を野放しにすると、私はいつものようにネガティブな変化が起こります。

野放しを止めようとすればするほど、「自己否定」ネガティブが始まるのが見えます。

私は、これをただの矛盾とせず、パラドックスのような状態と捉えています。

どれも正しいし、どれも間違い、もしくはどれでもない。

どちらに転んでも「顕在意識」だけでは、ネガティブなシンクロは起こるんです。

私のネガティブが止まらない原因はそこにありました。

この事実は私の中では否定しようがありません。

ただし、これは私全体を構成する一部分「顕在意識」という一面を一つの角度から見たにすぎず、こういう特性もあるんだなというところです。

シンクロを考える場合、顕在意識よりも「感情」や体の「感覚」が大切で、観察を進めるごとに、「顕在意識」のウエイトが軽くなってきます。

また自分の「欲求」は、「顕在意識」が欲しがっている物や相手の気持ちではなく、それを受け取った時の「感覚」そのものでしかなく、そこに目を向ければ「外側」に向いていた「欲求」は少しずつ「内側」に向き始めます。

突き詰めると、自分の「欲求」は自分が受け取る「いい感じ」の「感覚」のみということになります。

外側に向けていた欲求は錯覚であり、実は内側への欲求だったという捉え方も出来そうです。

「いい感じ」が欲しい。

それだけのようです。

そこにシンクロの構造をプラスするとどうでしょうか。

自分の「欲求」が原動力となり、自分の外側がシンクロによって動く、それを「感覚」として自分が受け取る。

「外側への欲求」が湧いてきたとき、「内側」をよく観察することで、上手にやればそれ以上のものが代替えとしてやってきます。

外側に投影するビジョンよりも内側の「感触」「感覚」です。

外側と思っていたものは、全てが内側なのかも。

ここ大事なところです。


ポジティブなシンクロを起こすには、ぶれない自分の真実、「感覚」「感触」を信じるしかありません。

この感触を充分に分かっている状態になるには、観察という努力が必要になってきます。

その経過があってこそ、ぶれない自分を信じることが出来るようになるのだと思います。

その上でポジティブなシンクロを起こします。

息の仕方一つで、体の「感覚」が「思考野」「感情野」に伝わりシンクロの動きが変化しだします。

その「感覚」を掴むことで「感情」や「思考」はいつでもコントロールできることが分かるようになってきます。

情報から得たものではない、もとからあったような自分の「感覚」。

これは「顕在意識」と同じように大切なものです。

この両者をどこまで旨くコラボさせて行けるかです。

その下準備が十分にできたら、自分が今フォーカスしているものが純粋な好奇心であるかを見極める。

もし、そこに小さな「恐れ」や「執着」を見つけても無視。

そして、目的が特別大きなポジティブであるなら、私の場合、覚悟の上で突撃~~~っ

         そのうえで
           「今」

      いい感じ? わるい感じ?

       を、問いかけます
    
        シンプルです

ここを毎瞬のように俯瞰・客観視出来ていれば、ほかにする事はないんです。

ネガティブな気持ちが好きならそのまま、嫌いならすぐに中庸・中立の気持ちに戻す。

毎瞬を俯瞰できていて、ネガティブが止まらないとすれば、それが好きなんです。

それでいいんです。

好きなだけネガティブな気持ちが続くように、シンクロがその環境を予想外の形で整えてくれます。

嬉しくて感動しますよ。

あとが大変ですが。(笑)

自分のことを、知って分かって信じてあげていれば、それでいいんです。

そう、ありのまま、そのまま、ネガテイブだらけでいいんです。

だってそうなんだから。

そしてそのスタンスを基盤に、興味のある分野を体験すればいいと思います。

だってしたいんだから。



『ちょぉ~っと待てーっ、ポジティブなシンクロはどこいった~~?』

 『ネガティブだらけでいいのか~~っ。』 って?



「いいんです、ネガティブだらけで。」

人に、迷惑がかからない程度であれば。

例えば、

少し前、ストレスで苦しんでいた時に、軽い病気で入院でもしたら楽だろうな~ってバチ当たりなイメージをしてみたらなんと、願いが叶って即入院。 \(^o^)/

そしたら叶いすぎて重度の顔面麻痺。(爆)

そして、私が持っているネガティブとポジティブの願いを同時に叶えながら最高のバランスでネガティブな土台が崩ずれ始めました。

この時点では私の顔が曲がっただけで、誰にも迷惑は掛かっていません。

でも思った表情が出来なくなり、絶妙な表情を駆使して人を騙す事(方便的なウソの表情)が出来なくなってしまいました。

目や、顔は口ほどにものを言うので、心の葛藤がありました。

そして、言葉や表情よりも、本来の正直な波動でコミュニケーションをとる。

表情よりも、「今」自分が出している「感情」や「意図」という「波動」に大きくフォーカスするようになりました。

人に迷惑が掛からない程度のネガティブであれば、少し困ったあとに自分のポジティブが加速する場合があります。

内と外のバランスがいい感じです。

シンクロの面白さはここにあるんです。

いい年こいてもビジュアルにチビットこだわる私には、顔面麻痺でなければならない理由をその後、数々のポジティブなシンクロが証明してくれました。

小さくても、たくさんの「楽しいネガティブ」で作り上げた土台があるのに、あせって「大きなポジティブ」を願うと、一挙に土台が崩れていきます。

ポジティブ(愛)な夢を具現化したければ、少しずつ崩していくのが無難かと考えます。

どんなに素晴らしい時代が来ても、シンクロの法則がある限り、ネガティブな土台を自分で崩すという「意図」がなければ、自分の周りだけネガティブな現実は続くと考えられます。

仕事、家庭、仲間、体、物などが「誰かより〇〇」のネガティブな要素で構築したものであれば、始めはネガポジどちらに偏ってもネガティブなシンクロが起こります。

手放しのポジティブに成りたければ、覚悟が必要です。

内と外のバランスが大事ですが、パーフェクトは私の場合無理。(^_^)

なので、多少のアンバランスによるトラブルは覚悟できています。

そして、内側である自分というものを理解していれば、何が起こっても耐えられます。

それは、あとがもっと良くなることを「知っている」からです。

このブログの問答は、この思いがきっかけになってスタートしました。

観察が進めば、また一つ土台が崩れ、それより大きなポジティブに近づいた実感を得ます。

ゾンビに近づいた顔は以前そのままですが。プッ

まっ、それも個性の一部ですから顔で楽しんだりしています。

そしてどうしてもいらないと、真剣に思うそのネガティブは隅に「整理」しておきます。

「整理」ができれば、シンクロはいつでも方向修正ができます。

今の瞬間、「愛・ポジティブ」であれば。

それさえ分かっていれば。

それだけでいいんです。

自分を分かってあげる。

そうすれば、いくらでも「楽しいポジティブ」はやってきます。

私の「楽しいポジティブ」は刺激は少ないけれど「安心感の中に豊かな喜び」があります。

また、「楽しいネガティブ」は刺激的で「恐れをかき消す快感」があります。

そして、どこからか湧いてくる、ワクワク感

一見くだらない「楽しさ」に見えても、それを上手に使うことで、毎瞬をパーフェクトなポジティブに繋げることができます。

無邪気な子供はみんなそうして「ワクワク」を上手に見つけます。

プラス、真実の探求があれば、私も少しは大人になれるかも。

観察が進むにつれ、そう感じます。

「ワクワク」に向かって行動あるのみです。

そして「楽しいネガティブ」より「楽しいポジティブ」を少しずつ増やしてゆきましょう。