2015年7月19日

45.無限大の自由と可能性

(日めくりブログではないので、途中から読むと繋がらないと思います。21稿までが前置きになります。)


私たちは無限大の夢を見、無限大の幸せを得る能力を持っています。

と、言い切ってしまいたいけれど、現実には多くの制限があります。

でも、少なくとも自分の中だけで展開する「思考」には、自分以外の誰も制限をかけることができません。

また、「死」によってそれが制限されると考える場合は、シンクロなどの不思議を考える前に「死」という概念を問い正す必要があるように思いますので、ここでは割愛します。

厳密には、「洗脳や催眠」、「テレパシーや電磁波」、「薬物や直接的危害」などの障害によって「自分という波動」がたとえ歪んでいたとしても、そのすべてが自分の個性であり、それを素直に受け入れる気付きが起きれば、「今」という瞬間の移り変わりの中で、如何なる者も自分の「内側」で起こる「思考」には制限をかけることができないはずです。

常識的な見方をしても、個人の「思考」を「直接的に制限」できるものを私は見たことがありません。

たとえ私の「思考」を全て見通し催眠を掛けようとする存在がいたとしても、そこにフォーカスしなければ、私の自由に制限はかかりません。

どう考えても、今のところ自分の「思考」だけは、無制限で無限大の自由を持っていることになります。

これは、私の中で、唯一の真実です。

そして思考が感情を動かし、感情や感覚が世界を具現化します。

「思考」も含めて「内側」をフォーカスしたときの、この確かな事実だけが、私の「絶対的な希望」になっています。

二元性を観察する中で、自分の「外側」へのフォーカスで得られる「希望」のようなものは分離的思考が残る場合、分析すればするほどそのほとんどが「依存」や「執着」などの「期待というネガティブ」であり、自分の「外側」に絶対的な「希望・ポジティブ」を見出すことが難しいことに気付きます。(「絶対」ではなく「絶対的な」です)

少なくとも三次元の世界では、「内」と「外」、「希望」と「期待」の位置と関係については、そのように言い切ることができそうです。

そして、「内側」へ焦点を合わせ、このブログで取り上げてきた「深層部」にすり込んだ逆さまの「信念」「概念」「恐れ」が見えてきた時、それを手放せば良いことに気付きます。

その論理で詰めてゆけば「浅層部・顕在意識」「深層部・信念・概念」「感情」が一つになれば全ての願いが叶うことにも気付き始めます。

とすれば、シンクロ二シティーの構造上、思考によってどこまでも具現化が進むのであれば、私は神や多次元の存在にすらなれることになります。

そして、「今」という瞬間の中で抱いた「幸せ」や「喜び」という感覚が、まるで自動的に「持続」するかのように、周りの世界が具現化し続けるのですから、自分という無限小のような存在が、無限大の可能性を持つことになります。

「そんなアホな!」 となるあいだは、私のように「顕在意識」が「内側」と「外側」を行ったり来たりしているようです。

前稿でも整理したように、根っこの「整理」が出来ていない状態で、神や無、生と死、自・他の概念をいくら変えようとしてもリバウンドが起こってしまいます。

整理を進める上で何かいい方法はないのでしょうか。

「顕在意識」や「左脳」は、論理的な「根拠」を必要としますから、時には科学的に進めるのがいいかもしれません。

私の脳ではすぐに限界が来てしまいますが、「今を感じる」のあい間に時々トライしています。

ゼロポイントエネルギーもそうですが、量子力学者は、無限大は無限小の中に存在するといいます。

まるで無から有が生じているような、まさにパラドックスな世界を解明しつつあります。

「波動」である「思考や意識」が創りだす世界に無限の可能性があることを、ここ数年、科学者たちが大きく唱えるようになったという現実があります。

そして、科学的な考察も踏まえ、シンクロの観察を続けるなかで、「浅層部と深層部の一致した思考」に「感情」が強く共振・共鳴すれば、自分の「思い」がそのまま具現化することを、否定できなくなってきます。

それと同時に、思い通りにならない原因が、自分の「外側」ではないのが充分に分かってきます。

それでも、思いのほか現実は変わらないように見える場合があります。

私の経験から、それは自分の置かれている環境をよく「整理」できていない時か、ネガティブとポジティブの判断が「曖昧」になっている時です。

例えば、自らがネガティブな目的を持って創った環境の中で、いくらポジティブな夢を具現化しようとしても、そのネガティブな土台があるかぎり、ポジティブな願いは簡単には具現化しません。

その土台とは、依存させようとする人と依存しようとする人が築いた環境。

そして、「誰かより〇〇」の基準による評価や判断で家庭や仕事、地位などを築いている場合がそれです。

私の経験から、そのうえでなおもポジティブを強行すれば、ネガティブな波動で構成された土台は、かたちをなくすまで止まろうとしません。

このことは今、あてはまるかたが多いと思います。

そして、自分の中で混乱と葛藤が始まります。

これと全く同じことが、私だけではなく、いま地球全体でも起きているようです。

不思議です。

ミクロからマクロまで全ての「波動」が同じ構造で動いているように見えます。

そして、シンクロという「波動」の動きは私の「思考」を遥かに超えたところで、ネガティブポジティブに関係なく最高の調和に向かって進み始めます。

人間関係の他には、物、お金など、あるときには自分の体すらも、みさかいなしに「深層部の思考」や「感情」が織り成す波動にあわせて変容を始めます。

「顕在意識」だけで頑張っても止まりません。

このことで、「浅層部・顕在意識」のパワーがいかに弱いかを実感します。

そして、シンクロの構造に気付いていない私に、耐えがたい変化がやって来ます。

顕在意識とは裏腹に、大切だと思っていたものをなくしてしまいます。

仕事、立場、愛する人、プライド、、、などなど。

簡単に取り戻すことはできません。

二度とこの「経験・思い」はしたくないと心に誓います。

そして、失ったものをあきらめようとします。

「もういいや、、、」 心は落ち込みます。

でも、今の私はこの時、自分に問いかけます。

「本当に?」

この問い掛けが大切なんです。

無意識ではあれ、ネガティブを基盤にして構築された自分の世界の一部が壊れました。

もしくは何かを捨てなければならなくなりました。

そのとき、そこに「未練」という「依存」や「執着」のようながものが残っていないか。

失敗やトラブルの中で学んだはずの私なのに、それでも少しだけ「未練」のようなものが残っているんです。

二元性を踏まえて考察すれば、これが「制限」の「タネ」になっていることが分かります。

そこまで分かっているつもりの私は、ここからどうしたらいいのでしょうか。

今までの私は、このネガティブの「タネ」を捨てようとしていました。

ネガティブと判定した「タネ」をいらない個性として捉え、それを捨てないでいれば、またおなじネガティブを具現化すると思ってしまいます。

私の場合、それがネガティブの「タネ」であることの認識ができていないときは、確かに、何度でも同じネガティブを繰り返しています。

この捨てたくても捨てられない「タネ」を認識できるだけでも大きな前進があります。

次にそれを捨てれば、今よりもっとポジティブな世界が待っていることに気づきますが、この自分の個性を捨てようとすることが「自分否定」になっていることに過去の私は気付いていません。

「否定」「批判」は「分離」であり、完全にネガティブな「思い」や「思考」がベースになっています。

そして、自分の中で葛藤が始まります。

「捨てなければ」「手放さなければ」「許さなければ」「受け入れなければ」そして「勇気を出さなければ」(~ω~;)))~~~

なんだか悩んでる人みたいですね。 (^。^)

ポジティブになろうとして頑張っているのにネガティブになっています。

頑張るからなんです。

自分も他人も、頑張らせると、こうなることがあるので私はいつも気を付けています。

これは気付きが起こり始めると、誰にでも訪れる現象のようです。

私はこの「捨てる」「手放す」「許す」「受け入れる」の言葉は曖昧性が強いので慎重に使うように心がけています。

この言葉はそれぞれが持つ「概念」をしっかりと「整理」していかないと、自分にも他人にも伝わらなくなってしまいます。

チャネリングされた文章や啓発本など、著者の「整理」されていない「曖昧な言葉の概念」がそのまま出ているものが多く、いまひとつ腑に落ちてこないのはそのせいかなと思うことがあります。

前稿で整理したように「整理」とは、いるものといらないものを区別するだけ。

決して捨てることではなく、認識さえ出来ていれば隅によせておくことで、時期が来ればまるでいらなかったように忘れてしまいます。

私はこの時が「手放せた」状態だと感じています。

そして、どうしてもそのネガティブがやりたければ、我慢しないでいいと思います。

それがネガティブな「欲求」であることを承知の上であれば、シンクロを観察しながらやってみるのもおもしろいと思います。

ただし、当然のように、ネガティブベースでスタートしたものは、「愛」から遠ざかり「恐れ」を抱く方向にシンクロが変化を続けます。

もし、ネガティブが許せる範囲を超えようとしたその時点で、シンクロの方向を修正すればいいわけです。

常に観察できてさえいれば、結果は予想できているので、「感情」がネガティブに大きく傾いたりはしないはずです。

自分が発した「思考」も「感情」も、全てシンクロによって自分に帰ってきますから、人に迷惑がかからない程度に「冒険」だと思って楽しむしかないですね。

だって我慢できないんですから。

我慢はネガティブとも捉えられます。

我慢をしてもしないでも、ネガティブを起こすなのら、我慢しないほうが楽しいですね。

そうやって自分の個性を受け入れ、楽しみながら、自分が思う理想の自分に少しずつでも近づいているのを認識できていれば、「今」という時間の中では、「パーフェクトなポジティブ」でいられるのではないでしょうか。

それには、何があっても過去や未来ではなく、「今」瞬間のポジティブもしくは中庸・中立を崩さない。

今の私には、これを実践することが自分と周りの喜びを保てる、最善の策かなと考えます。

そして、好ましくない相手の土俵に乗らない、怒らない、批判しない、期待しない、人をコントロールしない、されない、をトライしてみる。

そうして、自分を人や神と比べることをやめると、「自分という不思議」な存在が「無限大の自由と可能性」そのものであることを感じます。

たとえ目の前に神が現れ、私の道を示されたとしても、「今」瞬間のポジティブが寸分でも崩れる(恐れを抱く)のであれば、私はその神に従うことはしないでしょう。

それとも、神様が怒るまで質問しまくるかな。

もしも、真の神的存在が見ていたら、なんとおっしゃるのでしょうか。


『『 たまにはワガママしてもいいのですよ~~♡♡♡でもちゃんと「今」を感じていなさい~~♡♡♡』』

『『 それにしてもあなた、私の声がいつになったら聞こえるのよ♡♡♡バカ!♡♡♡』』


って、神様かなんか分からない感じになってしまいました。 (*^^*)