2015年3月13日

37.勇気に根性はいらない

(日めくりブログではないので、途中から読むと繋がらないと思います。21稿までが前置きになります。)


前稿の続きですが、勇気のない私に「勇気」を持てと言われても、何らかの「恐れ」と「矛盾」が付きまといます。

そして、自分に対して「勇気」がないという「ダメハンコ」を無意識に押してしまいます。

この時、当然のようにネガティブな感情を伴っています。

勇気がない者に勇気を出しなさいと言うほど、酷なことはないんです。

恐いものを前にして立ちすくんでいるのと同じように、益々「恐れ」を増幅させることにしかなっていません。

私は知らず知らずのうちに、自分にそれを強要しようとしていました。

この行為こそが「恐れ」を基盤とした「ネガティブ」そのものなのですが、止まらない「思考」がそうさせているという事に気付くまでは、この無意識のネガティブが薄れることはありませんでした。

普段、二元性に於ける「恐れ」のほとんどは、内面外面ともに周りからどう見られるか、また、取り巻く環境や自分の様子がどう変わるかを「思考」した時に、「感情」が反応して発生しているのが分かると思います。

でもこれは、全て自分の「外」を対象にしています。

自分と他人を「分離」した上での「思考」です。

ここでフォーカスする「勇気」は、外へ向けてのそれではなく、自分の深層部にある「信念・概念」などのことで、それを素直に手放せるかどうかということにあります。

端的には「違う自分になる」ことが課題になっています。(その必要性の是否について、この項では問いません)

そして、思ってはいても、変えることが出来ないという部分です。

自分の中で好ましくないと感じられる「思考癖」や「習慣」などもその一つです。

これは実際には前稿までで「分離」と「恐れ」が原因という結論が出ていますので、今この段階では他人が現実を作る「左脳」だけの自分を取るか、自分の現実を自分が創る「本当の自分」を取るかに全ては集約されます。

シンクロの構造を知れば知るほど「思考」がポジティブに傾いてきますが、「深層部」にある「依存」や「執着」による「習慣」や「思考癖」が最後まで立ちふさがることが自覚できると思います。

私の経験から、このどちらの自分を取るかは必ず精神的に 「らく」 なほうを選んでいます。

これを選ぶのは明らかに「左脳」なのですが、シンクロの面白さに気付けばそれが反転します。

「恐れ」を手放せばポジティブなシンクロが連続し出します。

それが分かれば、「思考」する「左脳」はどちらを選ぶでしょうか。

「らく」なだけよりも、「楽しい」を選ぶはずです。

その為に「今」の瞬間を感じながらシンクロを観察し、少しずつ気付きを即して行きます。

自分の中の小さな「恐れ」を一つ見つけ、手放して行く度に「愛」の方に傾く自分が見えてきます。

「恐れ」が消えたことが認識できれば、立ち向かう「勇気」など必要ではありません。

自分を知るということの大切さが分かる瞬間です。

「らく」を選んで結果的に堂々巡りを続けるか、「楽しい」を選んでその連続の中で生きるか、ただ選ぶだけです。

リアルなこの現実が時として幻想とも受けとれてしまう、それは「今」を感じ、シンクロの構造を知ることで、自分という一人の人間が限りなく自由を持たされていることに気付いた時の感覚です。

それが分かれば、あとはただ「意図」するだけです。

二元性を知れば、「真の勇気」はポジティブな情態「愛」からしか生まれないことがよく分かると思います。

勇気を強いることが、自分や他人をネガティブな土俵に乗せてしまうことの意味を知りました。

愛の無いデスクロージャーが危険であることの証明でもあります。

そうして私は「楽しい」と「愛」を選ぶことにしました。

それには、思うだけではなく、偏らない知識を吸収し、知識を叡智に変え、真実を知るという「意図」が必要だと感じます。

「恐れ」の実態・真実を知れば「恐れ」は「恐れ」ではなくなり、少しずつですが受け入れることができるようになりました。

この場合の「受け入れる」や「許す」は、よいとして認めたり、放置することではありませんよ。(念の為に)

まずは「感じてみてから考える」ですね。(*^_^*)