2015年2月2日

30.善も悪も受け入れる?

(日めくりブログではないので、途中から読むと繋がらないと思います。21稿までが前置きになります。)


自分を観察し分析していくと、二元性においてのネガティブがいろいろと出てきます。

物事の善し悪しを判定することが癖になっている私たちは、悪いとしたものを「否定・批判」しがちです。

というより、悪いと判定したことがすでに「否定・批判」と同じことになっているようです。

善し悪しを判定すること自体が、全てネガティブ「困る」という「恐れ」から来ることが観察から分かります。

極端で分かりやすい例として、人を殺すのは悪いことであると誰でもそう判定します。

人を殺そうとする人、殺した人は悪いとされます。

世界中の人が持つ常識です。

殺人を悪いと判断すること自体が、ネガティブなシンクロにつながるのであれば、さあ困りました。

現実はというと、自衛と称して大量殺戮(戦争)が、まかり通っています。

精神が異常を来たした時の殺人は、結果的に許されています。

なにがなんでも死刑を執行したい人がいます。

憎しみのあまり殺人を犯しても、相手が悪いとして許されることもあります。

私達の常識では、人を殺すことは悪いとしながらも、これらの殺人を「仕方ない」として容認する場合があります。

また、立場の違いによっては怒りの頂点に達する時もあります。

人を殺すのは悪いことだが、殺したほうがいい、死ぬべきだと言う人もいます。

倫理という常識において、殺人の善し悪しはケースバイケースになっています。

自殺もそうです。

いずれにせよ、止めたくても殺人は自由に行われています。

ここには「思考」と「感情」の整理がつかない、絶対的な矛盾が放置されたままになっています。

戦争を起こしたい人にとっては都合のいい状況です。

私たちは、自分も含めて人の生死に関して、しっかりと整理することもなく人類の歴史を歩んできました。

今までの考察と少しずつの結論を統合すると、これらの殺人は「ネガティブ」を刷り込まれた私達が引き起こす「シンクロ」によるものだとは考えられないでしょうか。

殺されると死ぬわけですから困ります。(≧ο≦)

これは自分が「困る」という「恐れ・ネガティブ」の最大級にランク出来ます。

このブログでは「愛」と「恐れ」を両極に持つ二元性の私達(人類)としています。

もし私達に「怒り」や「恐れ」という「ネガティブ」がなければ、死を恐れることはないし、「分離的思考」が湧いてこないので、人を殺すという「欲求」が湧くこともないはずです。

精神の病気でもない限り、人を殺めたりすることはないはずです。

前項の「29.ネガティブを受け入れる」では誰かを悪いとして批判することは、自分を批判することにつながるということになりました。

批判せずに受け入れることをしなければ、自分を愛していることにはならないという事にもなりました。

他人とは全て自分自身の投影でもあることを、可能性として見いだしました。

自分の中の「ネガティブ」を放置すると、シンクロもネガティブな方向に向くことも分かっています。

さて、私は殺人を犯す人を受け入れ許すことが出来るでしょうか。

生きることを止められては困りますので、殺人という行為は許せません。

しかし、それを犯してしまう人のいるこの現実が、自分が引き起こすシンクロに起因しているとしたら、全ては自分の責任ということになります。

もし、シンクロが個人や集団で引き起こされるものであれば、そこにフォーカスすればするほど、殺人や戦争が寄って来ることになります。

シンクロの構造を信じるとすれば、殺人者を許すもなにも、それら全て、自らが引き起こした現実そのものを、自分であるとして受け入れるしかないことになります。

シンクロの観察を続けていると、そこへたどり着いてしまいます。

複雑な心境です。

ただしその自分が、幼い頃からの刷り込みによって歪められた自分であることに気付くことで、今までとは全く違うおもしろいポジティブなシンクロの展開が始まります。

ポジティブな意味での We are oll one. の世界が広がり始めます。



まるで別のタイムラインにスリップしたようにです。