2015年1月15日


28.批判は分離的思考から

(日めくりブログではないので、途中から読むと繋がらないと思います。21稿までが前置きになります。)


前項で批判というネガティブが出てきました。

混同しそうな言葉に、裁定、評価、判定、批難などあり、物事の正否や良し悪しを判断する場面や目的によって使い分けて表現されています。

また、感情の度合いによっても、使い分けられています。

これらは結果として、評価が批判になったり、批判が批難になっていても分かりにくく、多くの曖昧性を持ちます。

辞書によると批判とは、評価、判定という意味を含みますが、これを哲学すると本題に入る前に思考がループするのでやめておきます。

便宜上、このブログ内では批判とは、他人や自分を「ダメと否定する」ダメ出しにある程度の感情が付随するものとして定義します。

論議で相手に勝たなければならない場合、相手を否定しながら進行する場合があります。

目的が「勝つ」にありますから、明らかに「基準付き欲求」が発生しています。

「基準付き欲求」には感情も入ります。

「26依存と自立」で定義したようにネガティブな感情ということになります。

政治家や評論家の討論では、批判的な論調で進行するので、やがては感情が表に出てきますから「思考」と「感情野」の動きが直接的で分かりやすいと思います。

ネガティブな思考は、時として罵(ののし)り合います。

「怒り」や「恐れ」が入り混じっています。

心の中は完全にネガティブと判定できます。

この人達が日本という組織を動かしています。

では勝つ必要がない場合、相手を批判するでしょうか。

正常なコミュニケーションでは、「勝つ」ではなく、ただ考えや気持ちを伝え、聞き、相手を理解し、尊重する為に行います。

言い換えれば、相手を受け入れる姿勢とも言えます。

民主主義はこうありたいものです。

「基準付き欲求」のないポジティブな状態ですね。

その場合、相手が間違いの答えを出していると思っても、間違いを指摘せず「それも許せるかも」と、受け入れることもあります。

また相手が間違いの行動を起こしても、許すこともあります。

それを放置することで相手や自分に「困る」ことが生じる場合は、相手を「批判」「否定」せずに「私が困るからやめて」と告げるだけになります。

それでも変わらない場合には、相手の個性を尊重したまま離れるという行動になります。

男女の別れに、こういう場合がありますね。(^^;

相手が子供、愛する家族や友人などの場合には、気付きを即す為の忍耐と努力がいるかもしれません。

ここには、批判的思考や言動は出て来ないのが分かります。

これが「愛」というポジティブだと考えます。

理想はこうですが、現実ではポジティブに生きようとしても組織という構造の中にいますから、簡単ではない場合があります。

組織的構造の中では、自分や自分達が「困る」場合一般的な流れとして、自分から離れるのではなく、仕方なく相手を組織や仲間から「排除」することになります。

否定的感情が増幅し、批難へと移行した場合は、相手の痛みを感じることはなく、故意に「分離」「排除」が行われます。

見て見ぬふりも、ネガティブの構造は同じです。

批難し、排除した後に相手が不幸に陥っても、自業自得であると「思考」してしまう場合は、自分を守る行為でもありますから、仕方がないように見えますが、果たして、この通りで良いのでしょうか。

このブログで取り上げるシンクロの構造を考えると、これら自分の中で発生するネガティブを放置するわけには行かなくなります。

シンクロや願いを叶えるための一番重要な思考深層部のことを考えたとき、恐れというネガティブに大きく関与する「期待」「依存」「分離」とともに「批判」という思考も手放す必要がありそうです。

ポジティブに生きようとしても、損得勘定も含めて「批判」や「批難」的思考は無意識のうちに連打でやってきます。

口には出さなくとも、「その顔好きではない」「そのしぐさ好きではない」「見た目が好きではない」に始まって「生理的にダメ」から「消えて欲しい」までエスカレートする人もいます。

自分を守るために、絶えず勝っていなければならないという深層部から無意識に湧いてくる「基準付き欲求」が、「ダメ」という批判的思考を生みます。

そして、多くの人が「ダメハンコ」を押したがります。

学校というシステムにも、そういうところがあります。

誰かにダメハンコを押すことで、自分がダメではない優位な位置に着けることができます。

もしくは、そうなったつもりで気持ちが楽になれます。

「誰かより」〇〇ですから「基準付き欲求」を伴っています。

これは組織社会の中で生き抜くにはしかたがなかったことですが、「恐れ」を基盤にしたネガティブであることに間違いは無いようです。

シンクロを考えた場合、「批判」は口に出す出さないには関係なく、常にネガティブな現実を創り続けていることに気付くことが、幸せへの道かと考えます。

私はこの「基準付き欲求」をたくさん持っていますが、現在のところ、行動に移さず保留中です。

チョット我慢もありますが、この我慢が良くないシンクロを起こしていることは、自覚しています。

どこかに感情を伴う「批判」的思考が沸いた場合、「基準付き欲求」と同じと判断できますから、これをそのままにしておくと深層部ではネガティブを抱えたままになってしまいます。

こうやって、刷り込まれたネガティブが予測的演算をはじめ、表層部に批判的思考として現れ、「どうせそうならない」「どうせそうなる」などという感情的決めつけを、無意識のうちに起こしてしまいます。

当然のようにネガティブなシンクロを起こします。

「やっぱりね」「思った通り」「実現するわけがない」となり、自分の願いは叶っています。

これが自分で作った現実だということには気付いていません。

そして、自分や周りとの生産的で前向きなコミュニケーションは薄れていきます。

これがそのまま、シンクロによって具現化しているとしたら、もったいない事です。

感情が強かった時に、その件を追跡、観察してみるとよく分かると思います。

批判的になっている時には必ず「今」という時に存在する感覚を失っていることに気付かされます。

「今」を感じることができない思考が「過去」と「未来」を演算し「感情野」に「少しずつ」影響を与えます。

「少しずつ」と表現したのは、後述しますがシンクロの度合い(大きさ、強さ)はどうも「感情野」の振幅の度合いに比例しているように感じるからです。

話がそれましたが、自分を守る役目である左脳の「思考」ですから、許せるのですが、受動的に反応する「感情野」がシンクロの原動力であるとして、その方向をポジティブに向けたいとすれば方法は、やはり「思考」を「客観視」しながら「今」を感じ、もう一人の自分が「感情野」をコントロールするしかありません。

何度も書いていますように、「今に在る」という感覚をキープすることが大切なようです。

「今」という瞬間を感じるには、ちょっとだけ「左脳」に休憩をしてもらい、「右脳」に働いてもらう必要があります。

いずれにせよ「今」という時の中で発する「波動」がシンクロの原動力とすれば、 「左脳」の雑談によって「今」を見失っている間は、コントロール不能 ということになります。

「批判」という「条件付き欲求」は、自分と他人を対極に置き、「分離」という構造を取っていますが、ここに不幸の原因があると指摘する人がいます。

「分離」しないとすれば「同一化」「合体」「共存」?他人を自分として受け止めるということなのでしょうか。

自分と他人を区別したままでいいとは思いますが、シンクロの構造から判断すると、他人への考えや思いは全て自分の現実として帰って来ています。

では、他人への思いは自分への思いだと考えればいいのでしょうか。

なんか思考がループしてしまいそうです。(;^_^ )


つづきます。