2014年12月16日


6.テレポーションの実験で物質化の速度は光の無限大?


量子レベルでは波束の収束速度が無限大というのが、量子コンピューターの研究から明らかになってきました。

速度が無限大?測定値から無限大が観測出来たということは、何万光年も広がった波束でも瞬時に収束すると捉えられます。

これは、宇宙エネルギーとしてのヒッグス粒子が物質化する速度や、思考としての波動が空間を伝播する速度が、無限大であることを証明しているようにも思えます。

また、速度が無限大だとすれば、想定された距離を縮めるのに、無時間もしくは無距離のどちらか、それとも両者ということになればこの世は時間も空間もないことになりそうです。

実際に今、最先端の量子力学は、時間も空間も存在せず、私達には「今という瞬間」だけがあり、それが絶えず変化するのみであるといいます。

そして、過去と未来は「今」という永遠の時の中に同時に存在するともいいます。

これでは、私が今まで経験して来たこの世界、時間、速度、空間の関係は崩れ、そこには時間、空間どころか、自分の存在すらもどういうことなのか分からなくなってしまいそうです。

しかし、ある量子力学者達の仮説を要約すると、こうです。

私達を含めた全宇宙の存在と、この物理の法則は、元である大いなる一つのエネルギーが、全てを体験するという、たった一つの意図から派生されたものであろう。
「一なるもの」の経緯は分からないまでも、果てには自分を人として分離し「一なるもの」が自らを忘れることを意図し、物質として存在するという「一なるもの」自らの経験で有り、自分を自分と思う自分は「一なるもの」そのものであろう。
また、時間も空間も存在しない絶対無とも言えるものから発せられる全ては、「一なるもの」の想念というホログラムであり、「一なるもの」としての自分を認識出来ない私達一人ひとりの意識は、物理的な体を脱ぐことがあっても永久に消滅することはない。
そして私達の住むこの銀河は、少なくとも11次元までの構成で成り立ち、今の人類は銀河内でも一番周波数の低い帯域である3~5次元に存在し、低周波ゆえにその波形は大きく質量も大きい。
人類が持つ「ネガティブ」恐れを生む「分離的思考」は、波動の振幅が大きく低い周波数の持つ特徴であるが、もし自らが「一なるもの」であることを思い出すことが出来れば、自分を取り巻くこの世界を、その自らの意図で反転出来る可能性がある。

壮大ですね。


私は科学の最先端を垣間見ることで、ようやくですが、シンクロという不思議な現象が少しずつ、腑に落ちるようになってきました。

https://www.youtube.com/watch?v=D237ochmEF4&list=PL6IltO-DpL0k8y_2e3E7Day1yMe5zZ_L_&feature=player_detailpage


この半世紀ほどの間に、この三次元空間には存在しなかったはずの反物質を作り出したり、物質をテレポートしたり、ここ数年では量子力学の進化が、まるで加速するかのように私達の不思議を解明し出しました。

私の脳ミソでは、到底及びも付かない世界ながらワクワクさせられます。

最近では、願いの叶え方を科学者達が語り始めていますが、今までの常識がひっくり返るような内容のものばかりです。

私がこだわる「ネガティブ」や「ポジティブ」のシンクロニシティーの構造が、量子力学で部分的に証明されているものもあります。

例えば、テレパシーの存在です。

私にとってはSFの世界だったテレパシーが、今では人の「思考」や「感情」という波動が他の人に伝わることが事実として、さらに進んだ実験がなされています。

いずれにしても、波動である「思考」が自分の外に発信されているのは事実のようです。

私達は普段、そのテレパシーを受け取っていても「左脳」が騒がしいために、聞こえていないようです。

身の周りに起こるシンクロと、大いに関係がありそうです。


7.裏付けのない信念に依存していないだろうか


面白いシンクロを起こすには、「感じる」を重視しますが、考え方の整理も大切なポイントになります。

まず、根っこのところを飛び越えて、論理の展開を始めると、最初に「神在りき」からスタートする宗教と同じになってしまい、「右脳」が活性化していない私は「左脳」がループ(堂々巡り)してしまいます。

シンクロの観察過程においても同じことが言えます。

例えば、宗教を信じようとする過程で、神の存在に疑問を持つ事があります。

異次元や知的生命体、引き寄せの法則を信じようとする場合なども同じです。

その時、真面目な人は「左脳」のループに前後して気付かないうちに「胸、心」が必ず、疑い、不安、心配、恐れの心持ちのようなものを微かに出してきます。

人によっては怒りを発することもあります。

また、何かへの「依存」からネガティブな「雑念」がループしている場合も似た構造になります。

宗教や他次元情報に「依存」する人は、神に対比して悪魔や地獄、人類滅亡と必ず一度は悲観的なイメージを抱くことがあるはずです。

その存在の有無には関係なく「依存」は「左脳」と「心」がループする原因になっています。

潜在的な不安という小さな「恐れ」が解消されないまま、いつまでも続くことになってしまいます。

「依存」については「依存と期待」のテーマで問答したいと思います。

そして、信じているのに、疑ってしまうという堂々巡りの状態をキープするように、ネガティブとポジティブの入り混じったシンクロが、周り中に起こっています。

ファイルにデーターの入っていないものを信じようとしても「左脳」が計算出来ないからです。

「左脳」には物理的な裏付けが必要なようです。

とすれば「左脳」以外の自分に解決を求めるしかありません。

自分を観察する上において、はじめの段階ではこの「左脳」や「右脳」、「心」またそれ以外の自分との関係を知ることが一番の課題になりそうです。

大切なのは、リアクションを起こす部分の特定と、その基本構造を観察することです。


8.もう一人の自分


上述の 《脳科学が進化したおかげで、左脳は物理的な機能構造が単一プロセッサ的であり、主に計算する、考える、物理的状況を判断し予測をして肉体としての自分を守る脳、右脳は並列プロセッサ的、そして周囲のエネルギーを感じる、受信する又は直感する脳である ようなことが言われるようになってきました。 https://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM ユーチューブより》

などから、リアクションを起こす部分を便宜上、「左脳」「右脳」「心」と呼ぶようにしました。私を例に 初期と現在の考えと感覚を分かりやすいように、下の図のように配置してみました。




少々結論めいたものになっていますが、これはあくまでも視覚も含めて考察しやすくするための工夫で、実際には演算「考える」と連想「思う」が同様のアクションであったり、「感情」と「思う」の変化がどちらも区別がつかないほどに交錯したりする場面が出て来ますので、この図の配置は便宜上のものです。

「感じる」ということに視点を置いて洞察を繰り返すと、明らかに同時進行で自分を客観視しているもう一人の自分が存在することに気が付くはずです。

例えば、私たちは怒りがこみ上げた時など、初めは時間差があり、事の後に状況を振り返って判定を下したり、反省したりしています。

そして「毎瞬を客観視する」を繰り返していると、 怒りがこみ上げている最中でも、冷静にそれを見ている自分に気が付くことが出来るようになります。

この時、習慣からか言葉や行動はいつものリアクションとあまり変わらないのですが、もう一人の自分が認識できた時点から、シンクロの方向が変わり始めます。

願いが叶う方向にです。

そして、初期に三つで仮定した図から、現在の図のように「客観視する自分」という部分を含めて四つになって来ます。(本当は無限大なのでしょうが)

私は、こうしていつもの自分、「左脳」と仲良くし、理解を求めながら、少しずつ願いを叶えてもらっています。

シンクロに気が付いた時、本当に楽しくなります。


10.左脳の演算にゆれる感情


自分を分析するには、いろいろと考えてしまいますが、実際には「連想」や「感じる」という部分をフルに使います。

そして、洞察によって少しずつ見えてきた本質のようなものを、曖昧ではないシンプルな言葉に置き換えるという作業を繰り返します。

その展開の一例として 例えば、仲のいい友人が街角で偶然自分の前を歩いていたとして、シミュレーションしてみます。

相手に気付いた瞬間に声をかけたいという「思い」のような「感情の」ようなものが瞬時に湧いています。

この時、私の場合嬉しくてほとんど何も考えないままに「やあ!偶然だね、どこ行くの」という言葉を発しています。

そして、「心」の中に「ネガティブ」な感情は全くない状態が観てとれます。

「思考」や「感情」の構造を、細かく観察していきます。

 これに対して仲のいい友人ではなく、大嫌いな上に苦手な先輩だったらどうでしょう。

いろいろな想定がありますが、声をかけたくない「思い」のような「感情の」ようなものが瞬時に湧いています。

無視しようか、それとも気さくに声を掛けようか、などの迷いも出て来ます。

いい感じで街を歩いていたのに、瞬く間にいやな感じ、ビクついている感じや腹立たしい感じなど相手によってさまざまでしょうが、自分の中の「心」と分類した部分の感情そのものが「ネガティブ」に傾いてしまいました。

ここまでの 流れは普通に観察出来るところです。

ここで、「心」と想定した部分は「する」という能動的なものではなく、まだ断定はできませんが、ただ反応して沸いてくるだけの受動的な部分である事が覗(うかが)えます。

そこからいろいろな「思い」が巡り、普通を装うために先のタイムラインまで予測して行動をとります。

この時、「左脳」が無意識のうちに予測という演算活動「考える」を始めています。

「心」の中は完全にネガティブ状態です。

ポジティブに移行したくても、数秒間の出来事ですから、ほとんどの場合、感情にフタをするか、開き直るしか方法はありません。

そしてこの間、全く言葉を使って考えていないことも分かります。

この考察の中で、「思いが廻る」という表現が一般的なので使いましたが、この時、瞬時に相手の表情の予測や先輩との過去の経験、その先に起こるであろうあらゆる事を、無意識に近い状態で「左脳」が連想しているようです。

この瞬時の連想は「思う」とか「心」が、というよりは「左脳」が反射的に演算をしている状態「考える」作業とみなしたほうが正しいかもしれません。

で、「左脳」の演算機能がコンピューターと同じであるとすれば、結論の出ないものを計算させると延々ループするかフリーズすることになってしまいます。

人がパニックを起こすのは、「左脳」のフリーズにあるのかもしれません。

ただ、その状況が自分にとって好ましいものでない事は「感じている」し、分かっているという状態ですので、そちらの方にフォーカスしてみます。

とにかく嫌いな相手ですから自分の中では「いやな感じ」「好ましくないフィーリング」になっています。

この時、過去の経験や自分の思い込みも含めて演算していますが、その結果として「左脳」が出してくる答えに「心」が反応して感情が沸いて来ているのが観察出来ます。

「左脳」が演算した答えを「右脳」が信号として受信した後に「心」が反応しているのかもしれませんが、とにかく「演算が先」で、「感情が後」だという事が分かります。

「左脳」が演算しなければ、「感情」は動かなということです。

その「心」の部分から沸いてくる「感情」をまた逆に「左脳」が受けて、益々ネガティブな状況を演算しながら連想を繰り返そうとする場合があります。

そして、同じ「思い」が頭から離れないで堂々巡りを繰り返します。

「思い」とは「左脳」と「心/感情野」の両方が絡むものを意味するようですね。

また、感情の度合いが強いほど、演算機能のループが止まらなくなります。

これに歯止めをかけないと怒りが止まらないか、落ち込むかになってしまいますから、前述したように「左脳」が出してくる対策は感情に蓋をするか開き直るかのどちらかになります。

自分を守るために「左脳」が出した苦肉の答えです。

何れにしても、「心」はこの嫌な感じを嫌いな相手から直接受けているのではなく、「左脳」の演算によって出てくる答えに反応しているようです。

原因が「左脳」だとすれば、その「左脳」と折り合いをつける必要がありそうです。

「左脳」とどこが折り合いを付けるのでしょうか?

ここからが、面白いシンクロを自分の意思で起こす始まりになります。

これが出来れば「右脳」も活性化しそうです。

で、相手が暴力的な場合は自分の身を守らなければなりませんから、「左脳」が一生懸命演算をして、ある場合には「嫌いじゃない」「怖くない」と暗示にかけようとします。

この時、過去の私はこれを克服する為にその嫌な感じを「怒り」に変えるというリアクションを取る場合がありました。

怒ることで、自分の中のネガティブで弱い部分が外からは見えないようにしていました。

たとえ人には隠せても、シンクロの正直パワーには通用しません。

同じ場面が繰り返されるかのように、シンクロがネガティブな調和を創り始めます。

怒りに限らず、笑いで「ごまかす」など、この外への行為が、他人を欺(あざむ)く前に自分自身を欺いていたということが、この時の私にはまだ分かっていません。

その瞬間から、自分を取り囲む全ての現実、特に人の反応や行動がまるで自分を欺くように少しずつシンクロを起こし、自分にとって都合の悪い方へと「調和」し始めます。

そして、自分を欺くことが「勘違いのポジティブ」という考え方に移行して行きます。

後述することになりますがこれをそのままにして置くと、自分の中に、逃れられない大きな矛盾を作り出す第一歩になります。

これらから言えることは、自分の「感情」を直接的に左右するのは自分の「左脳」であり、自分以外である周りにはほとんど関係がなく、自分の現実を作り出しているのが自らの「思考」「感情」が引き起こすシンクロ二シティーという事になって来そうです。

とすれば、「左脳」の雑音を止めて「感情」のコントロールが出来ればシンクロの方向を変えることが出来そうです。

「左脳」は殆ど休むこともなく、一日に数万回の演算を行っているそうですが、果たしてこの「左脳」が、本当の自分なんでしょうか。

自分を探求する上で、ここの部分が大きな観察ポイントになります。

このようなことを実際の日常に当てはめ、分析を繰り返すことで、自分を客観視することが徐々に習慣化して来ます。


11.ネガティブとポジティブ


願いを叶えるためにシンクロは絶え間なく起こっているようですが、それが自分の「思考」とは裏腹な場合、どこに原因があるのでしょうか。

どうも、「思考深層部」の「信念領域」と「感情野」の反応に原因があるようです。

私の場合、ここを掘り下げて観察する必要がありました。

そこで、先の考察の為に「ネガティブ」と「ポジティブ」という言葉を定義付けして於きたいと思います。

ネガティブな感情を分類すると怒り、恐れ、心配、恨み、妬み、悲しみなど、さがせばまだまだ沢山あります。

一方ポジティブな感情は、嬉しい、楽しい、幸せ、歓喜などとありますが、場合によっては「敵に勝って嬉しい」「敵を負かすことが楽しい」「勝つ事で得た自分の地位に歓喜」や「危険を危険とも思わない無謀なポジティブ」などと、手放しでポジティブとは言いたくないものもあります。

最近言われるようになってきたのが、ネガティブは「恐れの状態」ポジティブは「愛の状態」であり、人はこの「愛」と「恐れ」を両極に持つ、二元性の生き物であるという解釈です。

この二元性を、自分のあらゆるシーンでの考え方や感情の動きなどに当てはめて、深く観察してみると、まさにシンプルで的を得た表現であることが分かると思います。

私は、この解釈が真実に一番近いと考えています。

ちなみに「怒り」は「恐れ」の裏返しとか言いますが、「恐れ」で落ち込む状態を「怒り」でごまかすことによって克服しようとする部分が観察出来ます。

私はこれが習慣化し、恐れが来る前に反射的に怒りを発するようになっていました。

怒ることで脳から興奮作用を持つアドレナリンが分泌され、ある種の快感をもたらすことが分かっていますが、自分を守るための機能なのかもしれません。

よく怒る人は、裏を返せば怖がりさんで、怖いもの知らずをあえてアピールする人は、実は怖いものだらけなのかも知れませんね。(゜∀。)

人は見掛けだけで判断出来ないことの証明にもなりそうです。

また、「困る」や「心配」も、観察すれば小さな「恐れ」である事が分かります。

恨み、妬みなども、自分の立場が下がる、又はその地位まで上がれないもどかしさなど、自分にとって好ましくないシチュエーションから来る、結果的に「困る」や「心配」という「感情」の動きであり、小さな「恐れ」の副産物である事が分かります。

これらから、「心」もしくは「感情野」から湧き出している「ネガティブ」な感情は、全て「恐れ」を基盤にしていると断定してもいいかもしれません。

この、二元性の片方の極が「恐れ」であるとなれば、それがまったくないという対極が「愛」ということになります。

死を恐れずに人を助けようとする「無条件の愛」はその究極と言えるかもしれません。

人だけでなく、動物達にもしっかりと「愛」はあります。

https://www.youtube.com/watch?v=DTJTj5rPGcM


「愛」にもいろいろありますが、ここでは「恐れ」のない状態を便宜上「愛」と定義付けます。

誰かへの「愛してるよ」は「怖くないよ」の意味だったんでしょうか。(・・;)

 このことから、上記と重複しますがブログ内では便宜上「心」「感情野」での動き又は状態が「恐れ」を基盤としている場合に「ネガティブ」とし、「恐れ」が全くない「愛・慈愛」の状態を「ポジティブ」と表現するようにします。

考察を続けるうえで、この「ネガティブ」は「恐れ」「ポジティブ」は「愛」の二元性を自分や自分以外にも当てはめてみることで、とても観察しやすくなります。

自分の中に潜む「恐れ」を発見することが、願いを叶える早道と言えそうです。


12.左脳とネガティブの関係を観察してみる


ここで二元性の定義が「左脳」と「ネガティブ」の関係にどう当てはまるのかを観察してみます。

例えば、暴力という「ネガティブ」な行為に「恐れ」や「怒り」を感じた場合、する側、される側と立場は違いますが、どちらも「ネガティブ」な状態が観察できます。

この時、常識的な良否には関係なく両者共、内面的には同類であるとみなすことが出来ます。

最悪な例として「戦争なんか起す者は死んでしまえ、当事者は死んでも仕方がない」という考えが、受け身側に出る場合があります。

悲しいかな多くの国々がこれに類した考え方で動いています。(でも、希望はあります。)

そして両者とも「心」はネガティブ「左脳」が騒いでループしていますから、その状態で対抗しても、お互い「ネガティブ」な土俵に上がって相撲をとっているのと同じことになり、「左脳」と「心」のループが止まらない同士で暴力が起こる状況を助長してしまいます。

両者の誤解が解けなければ対立は収まりません。

一方「愛」ポジティブの状態であれば「怒り」も「恐れ」もなく冷静な判断が出来ます。

相手を「愛」で包み込み、暴力の原因である「ネガティブ」を中和してしまうことが出来るという可能性が見い出せます。

それは、全てが波動であるという観点からです。

と、いうような「ネガティブ」と「ポジティブ」で思考出来るシンプルなものの見方です。

また、今まで「ポジティブ」な人生を送って来たつもりでも、世間で言うその「ポジティブ」ではなく、「恐れ」と「愛」の二元性というシンプルな構造に当てはめてみれば、自分の考えや行動が善し悪しに関係なく、如何に「ネガティブ」に偏って過ごして来たかに気付かされます。

例えば、職場や学校、家庭、趣味の世界、場所はどこであれ、自分の地位や立場を落としたくない、今以上に自分を良く見せたい、自分を正当化したいなどのために行う言動や振舞いは、たとえそのことで誰もが楽しい雰囲気を得たとしても、それは全て自分がどう見られているかという周りの目を対象にした「ネガティブ」な「心」と言うことが出来ます。

それが、自分の中に潜在する小さな「恐れ」であることに気付けば、そこから先の展開は変えようがあります。

しかし、この小さな恐れに気付かないままでいると、前述したように「勘違いのポジティブ」がいつまでも続き、自分の現実は全て他人が起こすように見えてしまいます。

そして「ネガティブな現実」の原因を他人の中に見いだし、それを変えようとします。

変わらなければ「怒り」を発します。

変わる必要があるのは自分自身です。

洞察力を養い、この小さな「恐れ」の一つひとつを解析して行く必要があります。

これらの原因は、始めに分類した自分を守ろうとする「左脳」にあるようで、私は「左脳」が様々な危険を演算して教えてくれたおかげでこれまで生きてこれたわけですが、その代償として「心」の中は小さな「ネガティブ」のテンコ盛り状態。

なのに私は自分のことを「ポジティブ」で前向きであると思い込んでいました。

そして「ポジティブ」や本当の「愛」の状態がどういうものなのかを忘れ、気付くことなく、全くの不感症になっていたのでした。

自分の中にある「愛」という静かで平穏で「恐れ」や「怒り」が微塵もない状態、「今ここに自分が在ることのみ」という状態を「感じる」までは、、、

この「恐れ」を克服する上で参考になるのは、元ホームレスのニール・ドナルド・ウォルシュ、出版された書籍は1000万部を超えるかなり有名な人です。
下の動画ではシリアスな感じですが、本当は二個目の動画のようにとても面白い人です。
途中、神という言葉が出てきますが、神ではなく彼が気付いた真の自分です。 https://www.youtube.com/watch?v=pjoFWvvIaH4

ニール・ドナルド・ウォルシュの上をゆくエックハルト・トール二人の対談。
短い動画です。https://www.youtube.com/watch?v=_uVuInMPBzw

 2018年追記、残念ながらいい動画は何故かこうなってしまいます。




13.感じる環境をつくる


とにかく自分を観察するにはその「恐れ」が微塵もない状態という感覚を一瞬でも感じてみないと先へ進むことが出来ないのでこの辺で「感じる」ということに焦点を当ててみます。

「恐れ」「恐れ」の連発になっていますが、私達は多少の困ったことや心配事があっても、いつもは楽しく、普通に生活しています。

ここで取り上げるのは、常に自分が怖がっているという情態のことではなく、潜在的な「恐れ」を基盤とした考えからくる「ネガティブ」と判定出来る思いや雑念、過去と未来の演算による「ネガティブ」な雑念、小さな「困る」や「心配」などを言います。


これを取り除かないと、歓喜するようなシンクロは起こりません。

そこで、この雑念達から完全に解放された情態を、少しの時間でも感じて見るための環境を作ります。

「恐れ」のない状態は、自分にとってはとても好ましい状態なわけですから、その「愛」の状態を想像して感じてみて自分の中のどこかに記憶として残して置くようにします。

後でこの記憶が大切な「」になります。

まず、あれこれ考えずに「ネガティブ」の原因になっている「困る」ということが何もない自分を想像します。

そして次に、止まらない雑念を消します。

すぐには出来ないですね。

それには、緑に囲まれた自然の中、それが難しければ静かな部屋か駐車した車の中。

出来れば1時間以上の自由な時間を作ります。

一人旅などは最高かもしれません。

そして、想像や妄想という幻想の中で「考える」ではなく「感じる」をやってみます。

楽しみながらやるのが一番です。


14.私の場合ロケーションは、トロピカルビーチ


「思考」が先「感情」があと、を念頭に。

私は自宅のリクライニングソファーが、トロピカルビーチのデッキチェアーです。

ヤシの木陰にデッキチェアー、サイドテーブルには冷えた美味しいドリンク。

小腹がすいた時のために、フルーツとナッツ。
「但し、そこに異性の姿を持ってくるのは厳禁です」

そして、私は非の打ち所がないほど容姿が美しい。
スーパーマンより身体能力が優れている。
ミサイルが飛んできても死なない。
使いきれないほどの資産があり、欲しい物はいつでも手に入る。

現状としてはありえない自分に成りきってみます。

幻想の世界ですから、スーパーサイヤ人でも何でもありです。

現実とのギャップが激しすぎて馬鹿ばかしくもあるのですが真面目にやります。

ほかに、瞑想という手段もありますが、慣れるまで時間がかかることと、目的によっては瞑想自体に期待感を持ってしまうので、いい感じになって来てもリバウンドを起こしたり、予想より忍耐力がいります。

しかし正統派は瞑想から入るようです。

私の場合、恥ずかしげもなくスーパーマンになりきったところでそのまま瞑想(迷想?)するのが一番スムースな感じです。

であれ、現実の私とは正反対な分けですから、その境地に至るのは簡単でもないのですが、静かなところで、雑念をいくらか取り払いながら、自分の「心の変化」とその自分が「何をしたくなるか」を観察して行きます。

始めは、雑念が邪魔して来ますが、コツは楽しむということです。

「感じる」というこを忘れないで下さい。

 スーパーマンになったら、悪い奴をやっつけたくなるかもしれませんが、その場合自分もいやな奴に成り下がって、自分自身が「困る」の対象になってしまいますから、「ネガティブ」が出て来ます。

想像は自由ですから、初めはかっこ付けたり、お金を使いまくり、いろいろ楽しんでみると分かりますが、まったく「ネガティブ」が無い状態に入るのに始めは簡単ではないことが分かります。

でも、自分が主役の映画を自分で作るわけですから楽しくもあります。

この演じる楽しさを飽きるまで挑戦してみて下さい。

この時、成りきる「演じる」という事をしなければ、「心」「感情野」が動きませんからどう変化しているかを実際に「感じる」ことが出来ないので、軽い想像だけでは前に進みません。

実際に感じて下さい。

実は、この時すでにポジティブなシンクロがスタートしています。

それは、「今この瞬間」に楽しい波動が出ているからです。

何度も言いますが楽しむというのがコツです。


15.左脳が静かになるまで妄想してみる


楽しい幻想の世界では、仕事、人間関係、毎月の請求書にビクビクしている現実の自分や、世界の混沌などでモンモンしている自分はいないはずですから、「心」「感情野」は恐れの無い状態へと移動して行きます。

もしくは「恐れ」が小さくなって来ます。

そして、自分の中に「ポジティブ」と錯覚していた「ネガティブ」を多く発見することが出来るようになって来ます。

例えば、かっこよくスーパーマンで「愛」の状態になろうとしても、自分を良く見せよう、立場を上げようとすれば「心」は卑屈でネガティブな方向に傾いて行きますから、目的から離れてしまうことに気付き、人前ではスーパーマンに変身出来なくなってしまいます。(ちなみに私のスーパーマンはあのコスチュームではないですから)

深く成りきるには、時間が掛かりますが、この時の心もちを表現すると、恐れが無くなるにつれてポワ~ンと考える気がしなくなってきます。

人助けですか?これは大きな課題ですが、もし自分の「ネガティブ」やただの「欲求」を埋めるために行うのでしたら、いろいろな矛盾が生じて来ますから、最後の取って置きにしておいて下さい。

まずは自分の中をフォーカスして「感じる」ことが先です。

そして、スーパーマンの自分が「今」静かに腰掛けています。

過去や未来ではなく「今」のスーパーマンである自分を感じてみます。「今」をです。

三次元脳「左脳」の究極とも言える望みが叶ってしまった状態ですから、始めは嬉しい楽しいルンルンワクワクですが、何故か時間が経つにつれ空虚感が漂い始めます。

幻想の世界では、超が付くほどの大金持ちで、欲しいものはいつでも手に入るわけですから、何も欲しくなくなって来ます。

毎回欲しい物がなくなり、同じ展開では飽きてしまいますが、自分はスーパーマンなので、時には風を切って空を飛んだり、旅行をしたり、いろいろ楽しんでみようという考えが出てきます。

でも何時でも出来ることが分かると、それすらもしたい事がなくなってきます。

そして、そこからの「心」の動きには個人差があると考えますが、「左脳」と「心」の動きに変化が起こっているはずです。

「左脳」が静かになる瞬間があるはずです。

よく観察してみて下さい。


16.感覚を記憶しておく


その幻想の中で、欲しい物や、したいことが何もなくなったら、その時が「チャンス」です。

「左脳」の雑念に惑わされずに「感じる」に専念してみてください。

私の場合、「左脳」が静かになって「感情野」が反応しなくなった時が最高の瞬間となります。

ですが、度々眠ってしまいチャンスを逃します。

その時の感覚は、シーーン左脳が止まり、ンーー感情はゆれず、キーン少し耳鳴りを感じ、プワ~ン体は軽く、言葉では言い表せませんが、しっかりとそれを記憶します。

「恐れ」がなく、最高に静かで「平穏」、最高に「豊か」な状態に近づいた時の「感覚」です。

「左脳」の力を借りて幻想の世界を創り、そして「心」の反応「感じる」を観察してみて始めてわかる世界です。

一度記憶してしまうと、日常の中でもその「感覚」を思い出すことが出来ます。

「思考」を止めるにはいろいろな方法がありますが、肩に力が入らない自分に合う方法を工夫してみてください。

実際に体感してみないと、ここから先の問答が益々意味不明になりますから、その前に是非トライしてみて下さい。


ここが次の段階への入り口になります。


17.もう一人の自分を思い出す


そして、この段階まで来ると、最初からこれを客観視していたもう一人の自分に気付くはずです。

つまり、「左脳」が静かになり「感情野」が反応しなくなった時、その感覚を冷静に感じている自分がいたという事が、その証明になります。

幻想の世界でも、主人公である自分をその幻想の中で楽しませようと、その脚本を書いている現実のあなたと同じように、その脚本を書いているあなたを楽しませようとしている、もう一人の自分のことを見つけたといえそうです。

それは「左脳」に「幻想」の世界をシミュレーションさせようとしているいつもの現実の自分と、それが「幻想」であるにもかかわらず絶えず「受動的」に反応し、「ネガティブ」と「ポジティブ」を引き起こす「感情野」である「心」の動きを外から同時に観察している、冷静なもう一人の自分です。

幻想の中の自分、現実の自分、それを冷静に見つめる自分、三人が登場したことになりますが、この三人の「感情野」「心」の動きと雰囲気などの区別がハッキリと付くようにしておくことが重要です。

そうすることで四人目、五人目の自分を発見しやすくなるからです。
(多重人格の、それではないです)

そして、思考しているいつもの自分と、もう一人の自分が同時に存在していると認識するには「感じる」に頼るしかないのですが、「冷静」で「恐れ」など何もない「平穏」で「知的」な自分が常にそこに存在していたことを、思い出すように感じられた時、少し前の自分と今の自分が変化しているのが分かります。

それが、忘れていたもう一人の自分と融合した本当の自分という事になりそうです。

このもう一人の自分が登場すると、今までの自分は「なんだったんだ」という事になりますが、どうも私も含めた多くの人が、「左脳」と「感情野」辺りの「狭い範囲」だけを自分と認識しているようです。

これは「ネガティブ」な「情報」や根拠の定かでない「信念」によって小さな「恐れ」を蓄積し、「ネガティブ」思考が常に止まらない忙しい、「左脳」になってしまったことに原因があったようです。

 「感じる」と「考える」を繰り返すことでもう一人の自分を「思い出す」というのがいかに難しくて簡単かというのがトライしてみて初めて分かるのですが、思い出す度合いに応じて起こる不思議なシンクロや、思いもよらない現実の変化の楽しさを考えれば、そこに苦労はなく、ただ感謝あるのみの心境です。

「思い出す」の一つに幼児期の記憶というのがありますが、これも断片的に戻ってくるようで、私の場合三歳の記憶で、そのころはまだ使える言葉は少なかったはずなのに、周りの状況や雰囲気などを鮮明に把握出来ていたことを「感覚的」に思い出しています。

その頃の自分という「感覚」は冷静で平穏、そして自分という領域が現在よりも大きかったようにも感じます。

思い出したもう一人の自分とは、忘れていた幼児期の自分なのかもしれません。


18.「空虚感」から始まる


話を前々稿の「空虚感」のところに戻します。「妄想」や「幻想」の世界を造り、自分を観察してきた分けですが、この「空虚感」までたどり着けば大変面白いことが起こり出します。

もう一人の自分発見に加えて、身の回りに起こるシンクロや周りの変化を観察してゆく内に、実は自分が生きるこの現実の世界も、自分が作った幻想の世界も、記憶となってしまえば感覚的にはあまり変わりがないことに気付き始めます。

また、今まで体験して来たこの現実とういう「感覚」のほとんどが自分の「左脳」と「感情野」の連携によって作り出されていたとういう事も分かり始めると思います。

そして、「左脳」ではない部分が動き出した時、自分を取り囲む世界が反転します。

今まで見えなかったものが少しずつ見えるようになって来ます。

そうすれば、神様が見えたりというのではなく、いろいろなことが物理現象として起こり出します。

実に楽しい「シンクロ」が起こります。

その時、「考える」ではなく、「感じる」ということと、その起こった物理現象を客観的に観察してみて下さい。

自分では変えることが出来ないはずのこの現実が、まるで幻想の世界のようにゆらゆらと変わり始めます。

頭が変になったのではなく、常に起こっているシンクロにただ気付いていなかっただけと理解することも出来ます。

これもシンクロのひとつです。https://www.youtube.com/watch?v=nwAYpLVyeFU

もしも、「左脳」が持つ既存の知識や信念や概念ではなく、自分が元々持っていた別のところが動き出したことに少しでも気が付けば、そこのところを観察洞察することによって、ますます面白いことになって来ます。

人や動物、物に限らず、つながりのある「シンクロ」が連続し出します。

そしてその時、すでに願いが叶っている状態になっています。

但し、油断をすると私のように大きくリバウンドすることになると思いますが。

「考えないで感じてみる」からまた始めます。

自分というものの構造を知らないまま思いを巡らすより、いくらかでも分かっていてそうする方が遥かに楽しいと感じています。

その為には、Don't think. Just feel.です。(これ、誰のセリフか分かりますか)ブルース・リーの名言です。


19.「期待」はネガティブ


大きなリバウンドを起こさないために考察を続けます。

例えば今、恋愛中だとします。


二人はただ寄り添うだけで、「今」という時間の中に幸せを感じています。

「心」「感情野」はルンルン「ポジティブ」側に傾いています。

「左脳」の方は、「過去」としてそのタイムラインをせっせと記憶していきます。

喧嘩もしましたが、そのことでもっと仲良くなりました。

そして、まじめな交際であれば、誰でもハッピーエンドをイメージします。

この時、「幻想」である未来のタイムライン上に「期待」も込めてイメージしています

「左脳」が過去から今までを演算し、未来が「期待」通りに進むよう、それなりに演算行為を行います。

ここで「左脳」が相手の未来に「期待」した場合、もしうまくいかない時は自分が「困る」という小さな「恐れ」を持つことになります。

ルンルンが弱まるに連れて、大切な「今」を忘れて、未来を演算する「左脳」が騒がしくなってきます。

弱いルンルンを補うように無意識のうちに「左脳」が未来に「期待を」膨らませます。

この「期待」は、結果を出すのが相手ですから、自分以外に「依存」してしまうことになります。

歯車が狂えば、後戻り出来なくなります。

「依存」を続ける限り潜在的な「恐れ」が解消されないことがわかります。

このパターンのまま結婚という契約に至れば「依存」という小さな「恐れ」が付きまとうことになります。


私の経験からですが、全ての「契約」は結んだ瞬間から「契約不履行」というネガティブなイメージも潜在的に抱え込んでしまいます。

そうならないことを祈ります。

結婚はポジティブな希望や決意の表明でもありますが、希望ではなく相手や、将来への「期待」が大きいほど「ネガティブ」な「心」に傾いていることが言えそうです。

学校、サークル、会社などに置き換えてみても同じです。

「期待」や「依存」は「魅力」という材料を使って人を引き付けたり搾取したりする上で重要なツールになっています。

私たちのほとんどはこの「期待」と「失望」が繰り返される社会システムの中で、さまざまな「ネガティブ」に麻痺し、知らぬ間にそこから逃れられなくなっているようです。

そして、その「期待」という何かへの「依存」から離れられない状態を「執着」と表現するようです。

自分の中に起こる「期待」という「感情」のような「感覚」は誰しも日常的に持つものですが、これも自分観察の対象としては、重要な要素になります。

「期待」は「依存」、「依存」は「執着」を呼び、意識しないまま病的なループに陥る可能性があります。


自分の信念領域(深層部)に刷り込んだ、ある方法や考え方に「依存」「執着」する場合も、同じ構造になっているようです。(意外に多いんです)

そうする「べきだ」「ねばならない」という思いや発言が出た場合、この構造に当てはめてみればよく分かります。

「べきだ」と決めつけてしまわないと「思考」が先へ進まなくなる構造を深層部に何度も刷り込んでしまっています。

これを覆(くつがえ)されると「左脳」の「嬉しくない」「困る」という演算結果から、「感情野」は「ネガティブ」な反応を起こします。

それ相応の振る舞いを取っていない人に嫌悪感を抱いたりすることがありませんか。

バカはバカなりの振る舞いをする「べき」ですか。
貧乏人は貧乏なりの生活をする「べき」ですか。
ブサイクはブサイクなりに振舞う「べき」ですか。
人は絶対に苦労す「べき」ですか。

自分が作る幻想という「期待」を裏切られ、嫌悪を感じます。

これは自分の自由を奪う否定や批判であり、自分に嫌悪しているということに気付く人はほとんどありません。

人の自由は尊重す「べき」もののはずですが、深層部の「ネガティブ」が制限を掛けます。

嫌悪感が生じた時に、すぐには分からなくても、自分の深層部を観察できる最高のチャンスですので、こだわってみて下さい。

これら「期待」「依存」「執着」が、良し悪しには関係ないとしても、全て二元性においての「恐れ」「ネガティブ」と捉えられるはずです。

自分を分析するうえでシンプルで解り易い方程式になるのではないでしょうか。

そうやって、リバウンドの原因を少しずつ取り除いて行きます。




20.「希望」はポジティブ(愛)


前項では「期待」はネガティブという事になってしまいました。

では、ポジティブに「期待」する方法はないのか考えてみます。

「期待」している時は、こうなって欲しい、こうなったら嬉しい、ということですから常に願望を未来にイメージしています。

子供に「期待」するのも、購入した宝くじに「期待」するのも、未来がターゲットなので、「今」よりも未来の方が良くなることを望んでいる場合があります。

裏を返せば少なくともそのことに関しては、未来より「今」の方が良くないという「ネガティブ」な感覚を、深層部の自分に刷り込んでしまう可能性があります。

もし、2.シンクロで説明しましたように  《具体的には、自分の深層部にある「概念」や「信念」的な「考え」または「思い込み」のようなものから来る「感覚」とか「感情」のようなものが予測する「雰囲気」的世界が、善し悪しに関係なくそのまましっかりと具現化されていて、それに気が付くまでは感じている通りの世界が延々続くことになっているように観える》  の構造があるとすれば、私の「期待」するものは叶わない願望ということになってしまうのでしょうか。

私の経験では、エゴまみれで「期待」して、可能性の低い大きな願いも、まれに叶ったりすることもありましたから、その理屈は当てはまらないと思っていました。

しかし、『まるで願いが叶ったかのような感覚」がしっかりと自分の中にあり、「今、という時の中」にその満ち足りた感覚「希望」を持ち続けることが出来れば、願いは必ず叶う。』 と言う人がいます。

これは過去の願いが叶った嬉しい出来事、「期待」ではなく、最初から分かっていたような「感覚」のものや、願望が沸いた時の感覚を強く持ち続けていたものが、高い確率で具現化していることを、振り返ってよく観察してみると分かります。

これらのことから、自分の中では、過去や未来への依存ではなく、この「今」が連続する時の中で持続する「ポジティブ」な「感覚」を仮に「希望」と定義し、観察を続けます。

ここからは、ブログ内では便宜上「期待」は小さな「恐れ」をいだく種として「ネガティブ」そして、「希望」は「ポジティブ」として使い分けることにします。
では、どうやって「期待」せずに「希望」を持って願望をかなえたら良いのでしょうか。

欲しいものを欲しいと思い、それをいつか手に入れたいと願えば「期待」になってしまうし、手に入れてもいないのに、暗示をかけたように「希望」を持てと言われても、、、

その自問は何度となく繰り返しました。

この辺から話がややこしくなってきます。

私の経験から、先に結論を言うと 「私が未来に欲しいものは、全て手にすることが出来ない」 そして 「願うまでもなく、私は今の瞬間、全てを手にしている」 というのが答えです。(ニール・ドナルド・ウォルシュの受け売りです)

そんなバナナ!??

と思われるでしょうが、これは自分の根っこ(深層部)に蓄積された「ネガティブ」が、「欲求」にブレーキをかけていたことに起因しています。

でも、今手にしていないのに、全て手にしている???

これだと、私達の過去から未来へと一軸線状に進むタイムラインを無視した考えになりそうですね。

この答えが真髄を突いているように思うのは、「感じる」と「考える」を繰り返しながら、シンクロを観察していると、自分はすでに全てを手にしているのと同じだということを、少しずつ感じるようになって来るからです。

私がいつもこの境地でいる訳ではありませんが、「過去と未来」しか見ることができない「左脳」だけの私。

「今」という瞬間を受け取る「右脳」の私。

そして能動性を持たない「感情野」の私。

このそれぞれの私によって引き起こされる「愛」と「恐れ」の二元性という特性が見えるに従い、少なくとも身の回りの現実は全て自分が創造していることに少しづつ確信が持てるようになって来ました。

そして、この特性によって「今」の瞬間に揺れ動く「心」「感情野」が持つ、胸、腹のあたりから湧き出る「感覚」のような「雰囲気」のようなエネルギー。

それがまるで全ての現実に作用しているかのように、「ネガティブ」な波動が出ればそのまま具現化しているのが観察することで実感します。

分かりやすい表現をすると、「感情野」胸、腹辺りがドヨ~ンの「まま」結果を願えば。

例え願いが叶っていても、結果はドヨ~ンで、シュワーの「まま」であれば結果はシュワーです。

でも、少しのシュワーだけではだめなんです。

強いシュワーの 『まま』 でないとシュワー関係はシュワーにならないのです。

このシュワーを、もう少し詳しく説明すると、顕在意識である「左脳」浅層部の「思考」と深層部の「信念/概念」的な考え、そして「感情野」から湧いて来る「ウキウキ」や「ワクワク」などの三者が一致している情態でのシュワーです。

ここ、大事なところです。

しかし「左脳」の演算によってシュワーの状況が頭に描かれますが、浅層部の自分がまだ気付いていない、深層部に長年溜め込んだ「ネガティブ」「恐れ」がこれのじゃまをします。

二元性「ポジティブ」と「ネガティブ」、「期待」と「希望」などで定義したものに当てはめて自分をよく観察していないと、原因と結果の関係が見えにくくなります。

このことから、それぞれの状況下で「感じる」に重点を置き、あらかじめ自分の「ネガティブ」やそのパターンを分析し、理解しておく必要が出て来ます。

いろいろな角度からの観察によって得られる「理解」という下準備なしには、「期待」が「希望」に変わることはありません。

説明に、前置きが長いのは、そのせいもあります。


21.小さな「ネガティブ」(恐れ)を少しずつ手放す


そして、自分の中の「ネガティブ」である勘違いの「ポジティブ」や「期待」を洞察します。

ただ認識することが出来るだけでも、それが深層部の「ネガティブ」に影響し、自分の中が変化し始めます。

その時、身の周りの人達や願いの叶い方がどう変化しているかを観察してみて下さい。

もちろん具現化までのタイムラグがありますから見落とさないように。

また、あえて周囲の人を楽しくさせたい時、ウッヒョ~ウキウキワクワクのまま接すれば、相手は人が変わったように変化しているはずです。

少なくとも、自分に向けられる言動や表情などがポジティブなものに変わります。

全ては波動です。

その時ポジティブな思考の「波紋」が、相手の「波紋」と物理的に融合します。

言葉は必要ではありません。

でも、相手が病気の場合や極度にアドレナリンが出ている時は別です。

また、長続きすれば良いのですが、相手をコントロール、などと失礼な考えが入ると、あとで大どんでん返しがやって来ます。

それは、相手を騙すのと同じことになるからです。

でも、それが相手にとっても自分にとっても「ポジティブ・愛」な内容なら、試してみる価値はあると思います。

仲のいい身近な人ならば、理解してくれるはずです。

出来ることなら、「ポジティブ」な情況は、長続きさせたいですね。

それらのことが分かり始めた時、「ネガティブ」や勘違いの「ポジティブ」ではなく、真の「ポジティブ」を求めたくなるのは私だけではないと思います。

そして、自分の中の「ネガティブ」を一つ、また一つと発見し、手放していく中で「ポジティブ」で素敵なシンクロが、少しずつ増えてきます。


左脳には、個人や社会のさまざまなプロパガンダ(洗脳誘導的宣伝)や、経験によって知らぬ間に刷り込んだ真実ではない常識や知識などが、山ほど蓄積され、大人になると自分の「信念」という部分が一度「地球は平らだ」と決め込んでしまったら、ちょっとやそっとでは剥がす事が出来なくなってしまいます。

その「信念」という「思い込み」の様なものを押し通す人達に、天動説を唱えたガリレオは酷い迫害にあいましたが、誤りの「信念」が正され、庶民の常識となるまでには長い歳月を要しました。

自分の奥深くに持つ頑なに信じるもの、私はこの自分の「信念」というものを一度リセットする必要を「感じて」います。

そのせいか、私の人格を構成する土台のようなところが、変化に対する抵抗なのか、「感じる」「考える」という繰り返しの中で、奥深くに潜む、「恐れ」という「ネガティブ」が時々ざわついています。


それを押して根っこのところを穿(ほじく)り返すには時間がかかると思いますが、その変化を楽しめるように工夫することで「期待」が「希望」に変わります。


そして具現化の速度が速くなってきます。

シンクロが実に爽快で、心から楽しいものになります。

また、「ある条件下において」欲しいものは欲しいと素直に思えば良い事も分かってきました。

お金でも人でも、環境でも何でもです。

いるものは、いるんです。
少しではなく、必要なだけ欲しいと思えば良いということもです。

但し、これを魔法か何かのように身に付けようとしても、その思いが仇となって大きなリバウンドと共に、益々願いとは逆の方向に加速してしまうのです。

その時の「ネガティブ」な現象は自分が起こすのではなく、全て他人の責任に見え、自分には大きすぎて変えようのない現実としてのしかかって来ます。

私はこれを「希望」から「期待」への後退と呼んでいます。

私が「ネガティブ」の分析と整理にこだわる理由はここにあります。



長くなってしまいしたが、この辺までが 「自分という不思議」 に関する前置きです。


これらの展開が、果たして単なる体験的な観念論でしかないのか、問答は続きます。



オマケ
YASMINちゃん10才の歌に感動しました。
https://www.youtube.com/watch?v=9Q-MgM4oR4o