2016年1月5日

49.「いい感じ」とは「感謝の気持ち」のこと

(日めくりブログではないので、途中から読むと繋がらないと思います。21稿までが前置きになります。)

長いので、前項と分けて投稿しました。

前々稿で、最高のシンクロを求めて 『「いい感じ」という感覚を具体化してみたいと思います。』 と言ってみたものの、なぜかどんどん「いい感じ」から離れていってしまいました。

どうしたかと言うと、今よりももっと最高ないい感じになってみて、それを書いてみようと思ったわけです。

実はこれが 「今いい感じではない」とアファメーション/宣言をしたのと同じ事になっていました。

そして、「今いい感じではない」を持続させようと、少しずつシンクロの方向が変わり始めます。

ブログには分かったように書いていますが、日常はこんなまぬけをよくやっています。

私たちは、刷り込まれた常識によって、「幸せ」を「未来」に設定してしまうことがよくあります。

未来ではなく、「今それを思い浮かべて幸せ」という感覚をキープしておく必要があります。

難しそうに思いますが、例えば大好きな人の歌や舞台を見に行くと、最高に幸せになれる人がいるとします。

チケットを買えばその日が来るわけですから、幸せ/いい感じになれることは分かっています。

この感覚は「期待」ではなく、そうなるということが分かっているという感覚「希望」そのものですね。

思い浮かべただけで幸せなはずです。

その「いい感じ」の感覚を強く長くキープすることができれば、日常のあらゆる事にポジティブなシンクロが起こり始めます。

もし、会場に着くまで全く幸せ感を持てないとすれば、時間に追われている人かもしれませんね。

起こるシンクロは想像のつくところだと思います。

幸せ感をキープするには、何事においても時間に余裕が持てる行動をとることが、まず第一歩ですね。

時間に追われると数分後や数時間後と、絶えずその近い未来にフーカスしてしまうので「左脳」がフル回転状態、当然「今を感じる」ことが出来なくなってしまいます。

そうすると、ネガティブな「批判」「分離」、「怒り」や「恐れ」も浮上しやすくなってきます。

思いとしての感覚は、「時間がない」「忙しい」、、、、、

望み通り、シンクロは正直に時間が足りない環境を創り続けます。

なのに私はやってしまいました。

忙しさにかまけて「今を感じる」を、怠ってしまいました。

当然のようにネガティブなシンクロが多くなっていました。

それも8月から4ヶ月ものあいだ。

何故か大きく感情が動く出来事が起こり続け、自分を充分に俯瞰する余裕が無くなっていたように思います。

それにしても、いつもとは違って、あらゆることが大きく動いたような感があります。

私だけではなく、周囲の思いや感情がまるで増幅装置にでも掛けられたかのように、大きく振れていました。

ちなみにこの2016年は人類にとって、とてもユニークな時期でもあったようです。(後述)

「愛」にも「恐れ」にも大きく二元性の両極へ。

分かりやすいシンクロがランダムにではなく、まるで大きなパズルが組み上がっていくように、そこら中で起こっていました。

そのせいか、箍(たが)が外れたんだなぁと思える人や、我慢の緒が切れたんだなぁと思える人が周り中に。

個々では気付いていない様子ですが、心に大きな変化がおこっているように見えました。

ようやく12月になって、それぞれが所定の位置に着いたような感覚があります。

人によってリアクションはさまざまですが、周り全体が「愛」に傾いたような波動を今感じています。

そして、善し悪しには関係なく、それぞれに平穏感すら感じます。

それとも、なにかの前の静けさ?

私の周りだけなのしょうか。

で、私はと言うと、嫌われたり無視されたり、仕事や人間関係にも異変が連発。

「最高のいい感じを具現化」とは程遠くなっていました。

シンクロの方向修正は、感情のコントロールで大きく変わる事を学んでいながら「今を感じる」ことから遠ざかっていました。

でも、数々のトラブルがあったおかげで、いろいろな反省が出来、今まで以上に自分を「受入れる」「赦す」の概念を深めることが出来たと感じています。

そんな中のひとつが、前稿の48.「子猫事件」です。

子猫が引き戻してくれた「今という瞬間」の感覚。

これはあの子猫でなくてはならなかったことでした。

猫と私が起こす数々のシンクロ。

逆に私がヒーリングされていたこと。

自然に湧いてくる「感謝の心」。

最高にポジティブな「いい感じ」とは「感謝の気持ち」だったということを教えてくれた子猫事件。

けっして義務感や正義感ではなかったこと。

この、誰かに手を差し伸べようとするその気持ちとは、いったいなんなのでしょうか。

私が何かの結果/未来を望んだのでしょうか。

量子の世界で言う過去も未来もこの瞬間にしかないとすれば、助けようとしても、そのパラレルな未来はすでにあるわけで、私はその中からただ欲しいと思う既存の未来を選んだだけのことになるのでしょうか。

たとえそのパラレル全てを経験したとしても、「今という瞬間」のなかで、同時体験はできそうもなく、既にあるのなら、未来も過去も記憶と同じようなものと捉えることも出来ます。

だとすれば、すでに存在するパラレルの過去や未来の中で、喜んだり憂いたり、助けたり助けられたりを永遠に堂々巡りをしていることに成ります。

ひょっとして、今までになかった新しい未来すらも「今という瞬間」に在るのであれば、、、これっていったい、、、

だとすれば、この世界は「有限」ということになってしまう、、、、

私の頭も堂々巡りになってきました。

そこでもう一度、子猫に聞いてみようと思い、会いに行ってみました。

元気になった子猫はネコジャラシで転げ回って遊んでいます。


子猫

「過去だ未来だって言うとこみると、人間って記憶喪失なんだね、かわいそうに。」

「私たちみたいに今の瞬間だけを生きてみたら自然に分かるよ。」

「そしたら新しいパラレルがいっぱいできるよ。」

「宇宙が無限の多元性を持っていること知らないの?」

「そう、今の瞬間が無限に在る。」

「頭で考えてもムリムリ。」

「感じてみて!」

「ほら!今、また新しい未来ができたよ。」

「だからそれに感謝して、一緒に遊ぼうよっ!」   

ネコジャラシを手にそう感じました。


そう言われてみると、宇宙は、無限に創造する喜びを「質」として持つエネルギーなのではないか。

私たちも同じ「質」を持つその一部。

そして、その中で「愛」や「慈悲」というものは、全ての存在や自分という存在が「今ここに在る」という事実そのものへ、ただ、ただ、ありがとうと思う、その「感謝の心」でもあるような気がしました。

まさに「生きてるだけで、丸儲け!」ですね。\(^o^)/

「ポジティブなシンクロ」を起こすには「ポジティブないい感じ。」

それには「全てへの感謝の気持ち」が大きな「指標」になることを学びました。


子猫と全ての存在/愛にありがとう、ありがとう、ありがとう、、、、、、。



ミャ~~ (=‘x‘=)